包拯の主な事跡
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包拯は仁宗の時代に仕え、科挙試験で進士に及第し、大理評事、建昌知県、枢密副使にまで昇り詰めた。その間約26年に数多くの職を経ている。 包拯については、宋代に書かれた「仁宗実録・包拯附伝」と元代に書かれた『宋史』包拯伝の2つの歴史書があるが、両者とも記載は比較的簡単なものである。このうち正史である『宋史』包拯伝によれば、包拯が右司郎中として開封府尹代理を務めていた頃、極めて厳格で、権力があった宮中の貴族や宦官ですら恐れずに賄賂を摘発したので、非常に恐れられたという。民衆からは「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ(めったにない)」とか、「関節(賄賂)到らず、閻魔包公有り」(閻魔の包さんがいる限り賄賂は通用しない)など、子供でも包拯のことを知っており、大変人気があったという。また、政府高官になっても庶民時代と同じ生活をしており、群れを作らず、賄賂を断じて取らなかったという。これらの話は歴史的事実として認められている。 1973年に合肥で包拯とその親族の6個の墳墓が出土した。その墓誌銘によってある程度『宋史』等の記述を補うことが期待されたが、不完全で不明確な部分もあった。
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