三式戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 06:29 UTC 版)
川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」
注釈
- ^ アメリカ軍のP-51、イタリア軍のMC.202と同じ設計である。
- ^ これは日本陸軍最後の制式戦闘機である。なお歴史群像編集部 (2010, pp. 66–67)によれば、五式戦闘機は制式採用されていない。
- ^ もっともエンジンが同等とは言えBf109より設計が6年も新しいのであるから、三式戦闘機の方が設計が優れているのは当然と言えば当然のことである[15]。ただしBf109はF型で大改造を施し面目を一新しており、その後は三式戦闘機が事実上為し得なかった新型エンジンでの性能向上も行えた。詳しくはBf109を参照。
- ^ もっとも野原 (2009)によれば、最終的には搭載されていた川崎の液冷エンジン、ハ9-II甲がまともに稼働しなかったことが致命傷となった。審査を担当した一人である木村昇技術少佐は「一番印象に残った」とし、速度も出るし機体も頑丈、馬力があり模擬空戦では高度を取って優位を占めることができた、と評価していた[21]。
- ^ 副賞金は15,000円。これの措置は土井に一任され、多くは国債として岐阜工場や設計部に分配し、残りは宴会に使ったという[29]。
- ^ ただし土井はキ28では7.6と、さらに高いアスペクト比を用いている[44]。
- ^ これは海軍について言及した文献だが、碇 (1996)によれば、戦闘機の場合は通常7Gまで耐える事が求められていた[48]。なお耐Gスーツを着用しないパイロットが耐えられる限界は8G前後とされる。
- ^ この時の比較対象機種は、FM-2、F4U、F6F、P-38、P-47、P-51、P-63。
- ^ ただしこれは上昇力の欠如も含めた評価。確実に飛ぶ一式戦闘機と上昇性能の良い二式単座戦闘機が引き合いに出されている。
- ^ 鈴木 (2012)によれば、時期は定かではないが、噴射装置の合格率はわずか5%であったという[115]。この部分はデーゼル機械株式会社、1981、『ヂーゼル機器40年史』よりの孫引き。
- ^ 当時かかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されていたのもの。鈴木 (2001, p. 133)によれば、これは2001年現在のJIS規格では、0.5マイクロメートルが求められているという。なお、転がり接触面の油膜の厚さは通常、1マイクロメートル程度であり、これでは不具合の発生は容易に想像できる、としている。
- ^ キ61はこの段階でいまだ三式戦闘機として制式化されておらず、隊員たちは機材をキの61と呼んだ
- ^ 磁差修正に優れた海軍側に頼んで最終調整されていた。ただし軍刀や拳銃を持ち込むと方位が狂うという。
- ^ 渡辺 (2006)による。碇 (2006)によれば180度に対して150度。
- ^ 大海原で不時着水を行ったところで、救助の見込みはほとんど無い。このため海面に突入し、自殺を行う。これは日本軍では「自爆」と言われていた。
- ^ 1941年にドイツの日本駐在武官からもたらされたもの。通常、2機編隊のロッテを2つ組み合わせた4機編成をケッテと言うが、日本では2機編隊を分隊、4機編隊を小隊とする[206]。現状では出典不備で事実確認の難しい部分もあるが、より詳しくは当該項目を参照。日本についての記述もなされている
- ^ 大塚 (2007b)、近現代史編纂会 (2001)は38機が出立、渡辺 (2006)は約30機が到着とする。
- ^ さらに、第244戦隊は特攻機の援護訓練も行っている。この場合は通常の武装や迷彩塗装が必要であり、現場は混乱していたという。
- ^ 小林戦隊長の体当たりも射撃と同時に行われたものである。なお、小林手記によれば、機関砲は300発を装填できるところ、例えば50発に抑えるなどされたという。
- ^ 兵藤によれば1942 - 1943年の生産数は不明。
- ^ なお航空機関銃/航空機関砲は、飛行機の運動に伴うGを原因として故障を起こすことがある[295]。また機関砲自体の問題のみならず、装弾・給弾および排出機構や機体への装備方法についても問題とされる場合がある[296]。ホ103はブローニングM2重機関銃のコピー・改良型であり[297]機関砲の機構自体の問題は少なかったようであるが、Gがかかった時の給弾トラブルが多発していた[298]。ただし兵藤は諸事情を鑑み、調子は悪くなかったのではないかとしている。
- ^ 本来は毎月300丁の継続的な輸入契約であったが、ドイツと日本の間の交通は潜水艦しかなく、輸入されたのは800門のみとなった[308]。
- ^ 飛行中、Gがかかれば機関砲の動作速度も変わる。碇 (1997)によれば、最大6Gの環境にまで配慮が成されたものであった。
- ^ ただしドイツの主力戦闘機Fw190の内翼の20 mm機関砲なども同調式であり、皆無と言うわけではない[320]。ソビエトの戦闘機でも普通に行われている装備方法であり、欧州では特に珍しくはない。また、日本海軍で使用していた九九式二〇ミリ機銃は装填方式の都合により同調装置を装着できなかったためプロペラ圏内に搭載することはそもそも不可能であった。
- ^ 渡辺 (2006)によれば20 cm、土井 (1999)によれば18 cm。
- ^ 渡辺 (2006)や、『世界の傑作機』p.39では、580 km/h。560 km/hを採用している文献の方が多いため、本文中ではそちらを採用している。
- ^ 古峰 (2007, p. 143)は重量増加は330 kgとしているが、秋本 (1989, p. 16)によれば自重で250 kg、全備で330 kgの増加。
- ^ 片渕 (2007, pp. 90–91)によれば、川崎内で特にこう呼ばれていたらしい。川崎内では「キ61マ式」とも。
- ^ 片岡は陸軍第42期操縦学生出身で、元准尉。飛行歴12年のベテランパイロットである[338]。その後試験飛行中に事故死。
- ^ 渡辺 (2006, p. 322)では3機、渡辺 (2010, p. 82)では4機。ただし後者には「B-24」の文字は登場していない。
- ^ 日本陸軍の「陸軍現用試作機一覧表」においては、略号(キ○○)、正式名称、形式(一型、二型)、称呼(甲乙丙丁)の他に、区分と言った欄がある。ここには「武強」の他に、「性向」「急降下性向」「電波」など言う区分が見られる[360]。
- ^ 音速は大気圧、温度、湿度によって変化する。またマッハ数補正機能のないこの時代の速度計ではマッハ数0.6程度を境として実際よりも高い数値を示す傾向がある。このときのマッハ数がいくつであったかは高度、温度、速度計の特性等が併記されないかぎり確定できない。
- ^ 日本郵趣協会 (1997)によれば、原案では三式戦闘機ではなく九六式陸攻であった。
出典
- ^ 土井 2002a, p. 27.
- ^ a b 土井 2002b, p. 16.
- ^ 秋本 1989, pp. 10–11.
- ^ a b c 土井 1999, pp. 98–99.
- ^ 渡辺 2010, p. 73.
- ^ 渡辺 2010, p. 81.
- ^ 渡辺 2006, p. 290.
- ^ a b c 太平洋戦争研究会 2001, pp. 62–63.
- ^ a b 秋本 1989, p. 14.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 71.
- ^ a b 矢吹 & 市ヶ谷 2011, pp. 116–117.
- ^ 秋本 1989, p. 10.
- ^ 渡辺 2006, p. 48.
- ^ 秋本 1989, p. 1 1.
- ^ 野原 2000, p. 121.
- ^ 古峰 2007, p. 119.
- ^ 碇 2006, p. 81.
- ^ a b c d 渡辺 2006, p. 64.
- ^ 土井 2002a, p. 30.
- ^ 土井 1999, p. 97.
- ^ 野原 2009, pp. 53–54.
- ^ 古峰 2007, p. 116.
- ^ 古峰 2007, p. 133.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 72.
- ^ 古峰 2007, p. 134.
- ^ 渡辺 2006, pp. 74–76.
- ^ 「丸」編集部 2000, p. 18.
- ^ 「丸」編集部 2000, p. 56.
- ^ a b c d 土井 2002a, p. 32.
- ^ a b 渡辺 2006, pp. 39–42.
- ^ 土井 1999, p. 95.
- ^ 土井 2002a, p. 21.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 43.
- ^ 林 1999, p. 118.
- ^ 碇 2006, p. 68.
- ^ 古峰 2007, p. 120-121.
- ^ 渡辺 2006, pp. 44–48, 72–73.
- ^ 渡辺 2006, pp. 76, 83.
- ^ 渡辺 2006, p. 94.
- ^ 渡辺 2010, p. 74.
- ^ a b 和泉 1999, p. 21.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 65.
- ^ 碇 1997, p. 66.
- ^ a b c d 秋本 1989, p. 12.
- ^ a b 和泉 1999, pp. 21–22.
- ^ a b c d e f g 土井 1999, p. 101.
- ^ 渡辺 2006, p. 65-66.
- ^ 碇 1996, p. 105.
- ^ 光人社 陸軍特攻の記録 村岡英夫 P87
- ^ a b 和泉 1999, p. 22.
- ^ a b 碇 2006, p. 97.
- ^ 古峰 2007, p. 135.
- ^ 渡辺 1999, p. 38.
- ^ 渡辺 2006, p. 66.
- ^ a b 和泉 1999, p. 25.
- ^ 碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂、1977年、p101
- ^ 和泉 1999, pp. 27–28.
- ^ a b 碇 2006, p. 104.
- ^ 碇 2006, pp. 105–106.
- ^ 渡辺 2006, p. 68.
- ^ 和泉 1999, pp. 25–26.
- ^ 小口 1989, p. 45.
- ^ 小山 1999, p. 107.
- ^ 野原 2005, p. 109.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 259.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 70.
- ^ 渡辺 2006, pp. 71, 348.
- ^ a b 和泉 1999, p. 28.
- ^ 片渕 2007, p. 97.
- ^ モデルアート社 モデルアート臨時増刊No428 飛燕/五式戦 P74~P75
- ^ a b 渡辺 2006, p. 96.
- ^ a b c d e f 秋本 1999, p. 120.
- ^ a b 和泉 1999, p. 23.
- ^ 同朋舎 1989, p. 20.
- ^ 渡辺 2006, p. 160.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 190.
- ^ 光人社 陸軍特攻の記録 村岡英夫 P88~92
- ^ 光人社 陸軍特攻の記録 村岡英夫 P91~92
- ^ 光人社 軍用機メカシリーズ【2】飛燕&五式戦/九九双軽 P48
- ^ 渡辺 2006, pp. 77–79, 94–96.
- ^ 渡辺 2006, pp. 96–97.
- ^ 渡辺 2006, pp. 101–103.
- ^ 古峰 2007, p. 139.
- ^ 和泉 1999, pp. 31–33.
- ^ 和泉 1999, p. 33.
- ^ a b 碇 2006, p. 120.
- ^ a b 荒蒔 2011, pp. 202–204.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 97.
- ^ 大塚 2007b, p. 191.
- ^ 渡辺 2006, p. 158.
- ^ 渡辺 2006, pp. 180–181.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 180.
- ^ 渡辺 2006, p. 181.
- ^ 渡辺 2006, p. 182.
- ^ a b c d 大塚 2007c, p. 173.
- ^ スタナウェイ 2001, p. 46.
- ^ a b 『航空情報』1972年10月号「戦闘機W.W.II 2」青木日出雄編 酣燈社、p136
- ^ a b 大塚 2007c, p. 174.
- ^ a b c 渡辺 2002a, p. 83.
- ^ a b c スタナウェイ 2001, p. 47.
- ^ a b c d 歴史群像編集部 2011, p. 100.
- ^ a b c 大塚 2007c, p. 175.
- ^ a b スタナウェイ 2001, p. 48.
- ^ スタナウェイ 2001, pp. 46–47.
- ^ 『丸』潮書房光人社2017年1月号別冊 三式戦闘機「飛燕」, p. 172.
- ^ a b c 大塚 2007c, p. 177.
- ^ リエリー 2021, p. 74.
- ^ a b c 大塚 2007c, p. 178.
- ^ 大塚 2007c, pp. 179–180.
- ^ 『丸』潮書房光人社2017年1月号別冊 三式戦闘機「飛燕」, p. 173.
- ^ a b 碇 1996, p. 259.
- ^ a b 渡辺 2010, p. 75.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 117.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 118.
- ^ 鈴木 2012, p. 377.
- ^ a b 和泉 1999, p. 43.
- ^ 碇 2006, pp. 129–130.
- ^ 渡辺 2006, pp. 150, 156–157.
- ^ 鈴木 2012, pp. 373, 385.
- ^ a b 鈴木 2012, p. 374.
- ^ a b c 古峰 2007, p. 147.
- ^ a b c d e 古峰 2007, p. 148.
- ^ a b 歴史群像編集部 2010, pp. 66–67.
- ^ 鈴木 2012, p. 379.
- ^ 鈴木 2001, pp. 134–135.
- ^ 碇 2006, pp. 133–134.
- ^ 鈴木 2012, p. 363.
- ^ 鈴木 2012, p. 372.
- ^ 鈴木 2012, p. 376.
- ^ 鈴木 2012, p. 378.
- ^ 鈴木 2001, pp. 133, 136.
- ^ 鈴木 2012, p. 373.
- ^ 碇 1996, p. 260.
- ^ 鈴木 2012, pp. 385–386.
- ^ 鈴木 2012, p. 392.
- ^ a b 渡辺 2010, pp. 75–76.
- ^ 渡辺 2010, p. 84.
- ^ 渡辺 2010, pp. 76, 79.
- ^ 碇 2006, pp. 118, 132, 205–206.
- ^ 碇 2006, pp. 132–133.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 318.
- ^ 渡辺 2006, p. 339.
- ^ 古峰 2007, p. 140.
- ^ a b 古峰 2007, p. 144.
- ^ 渡辺 2006, pp. 182–183.
- ^ 大塚 2007b, p. 169.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 270.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 271.
- ^ 渡辺 2006, p. 274.
- ^ 渡辺 2006, p. 281.
- ^ a b 小林 2011, p. 234.
- ^ 生野 1989, p. 56.
- ^ 小林 2011, pp. 237–238.
- ^ 角田 2011, p. 280.
- ^ 渡辺 1999, p. 139.
- ^ 碇 2006, p. 131.
- ^ 野原 2005, p. 111.
- ^ 古峰 2007, pp. 153–154.
- ^ a b c d e f g 渡辺 2006, p. 218.
- ^ a b c d e 渡辺 2006, p. 219.
- ^ a b c 古峰 2007, p. 146.
- ^ a b 古峰 2007, p. 154.
- ^ 渡辺 1999, p. 140.
- ^ 渡辺 1999, pp. 138, 140.
- ^ a b c d e 渡辺 1999, p. 246.
- ^ a b 林 1999, p. 119.
- ^ 渡辺 1999, pp. 186–188.
- ^ 渡辺 1999, pp. 186–188, 369–370.
- ^ 古峰 2007, p. 149.
- ^ a b c d 土井 1999, p. 100.
- ^ 「丸」編集部 1999, p. 47.
- ^ 松崎 & 鴨下 2004, p. 45.
- ^ 林 1999, p. 117.
- ^ 朝日ソノラマ 液冷戦闘機「飛燕」 渡辺洋二 P76
- ^ 朝日ソノラマ 液冷戦闘機「飛燕」 渡辺洋二 P111
- ^ 碇 2006, p. 123.
- ^ 碇 2006, p. 124.
- ^ a b 碇 2006, p. 130.
- ^ 渡辺 2010, pp. 79–80.
- ^ 渡辺 2006, p. 105.
- ^ 渡辺 2006, pp. 106–110.
- ^ 渡辺 2006, p. 111-114.
- ^ 渡辺 2006, p. 120.
- ^ 渡辺 2006, pp. 118–120.
- ^ 渡辺 2006, pp. 122–124.
- ^ 渡辺 2006, pp. 125.
- ^ 渡辺 2006, pp. 127.
- ^ 渡辺 2006, pp. 131–132.
- ^ 渡辺 2006, p. 128-130.
- ^ 渡辺 2006, p. 131.
- ^ 渡辺 2006, pp. 133.
- ^ 渡辺 2006, pp. 134.
- ^ 渡辺 2006, pp. 134–135.
- ^ 渡辺 2006, p. 140.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 141.
- ^ 渡辺 2006, p. 147.
- ^ 渡辺 2006, p. 150.
- ^ 戦史叢書 7 P.210
- ^ a b 渡辺 2006, p. 153.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 159.
- ^ 野原 2009, p. 88.
- ^ 渡辺 2006, p. 161.
- ^ 渡辺 2006, p. 168.
- ^ 同朋舎 1989, p. 19.
- ^ 同朋舎 1989, p. 23.
- ^ 赤塚 2012, p. 120.
- ^ 渡辺 2002b, p. 168.
- ^ 渡辺 2006, pp. 172–173.
- ^ 渡辺 2006, p. 188.
- ^ 渡辺 2006, p. 198.
- ^ 渡辺 2006, p. 197.
- ^ 碇 2006, p. 151.
- ^ 小山 1996, p. 94.
- ^ 渡辺 2006, p. 199.
- ^ 渡辺 2006, p. 202.
- ^ a b c 大塚 2007c, p. 176.
- ^ 渡辺 2006, p. 220-221.
- ^ 渡辺 2006, p. 232.
- ^ 近現代史編纂会 2001, p. 129.
- ^ 渡辺 2006, p. 233.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 239.
- ^ 渡辺 2006, p. 240.
- ^ a b 渡辺 2006, pp. 240–244.
- ^ a b 渡辺 2006, pp. 245–246.
- ^ 田形 1991, p. 17.
- ^ 田形 1991, pp. 18–19.
- ^ 渡辺 2006, pp. 246.
- ^ 田形 1991, p. 39.
- ^ 渡辺 2006, pp. 247.
- ^ 田形 1991, pp. 37–41.
- ^ 渡辺 2006, pp. 248.
- ^ a b c 渡辺 2006, pp. 253.
- ^ 渡辺 2006, pp. 255.
- ^ 渡辺 2006, pp. 258.
- ^ a b 近現代史編纂会 2001, p. 130.
- ^ 渡辺 2006, pp. 264.
- ^ a b 大塚 2007b, p. 167.
- ^ 近現代史編纂会 2001, p. 148.
- ^ 渡辺 2006, pp. 260.
- ^ 大塚 2007b, p. 168.
- ^ 渡辺 2006.
- ^ a b 渡辺 2006, pp. 268–269.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 226.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 227.
- ^ 渡辺 2006, p. 228.
- ^ 渡辺 2006, p. 230.
- ^ 渡辺 2006, p. 231.
- ^ 陸軍三式戦闘機「飛燕」73頁
- ^ 渡辺 2006, p. 205.
- ^ 渡辺 2006, p. 208.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 212.
- ^ 渡辺 2006, p. 222.
- ^ 渡辺 2006, p. 220.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 224.
- ^ 渡辺 2006, p. 225.
- ^ 渡辺 2006, pp. 279–280.
- ^ 碇 2006, p. 200.
- ^ 小林 2011, pp. 230–231.
- ^ 小林 2011, pp. 230–231, 240–241.
- ^ a b 小林 2011, p. 242.
- ^ a b 渡辺 2002a, p. 86.
- ^ 角田 2011, p. 283.
- ^ 渡辺 2006, p. 282-283.
- ^ a b 野原 2009, p. 128.
- ^ 渡辺 2006, p. 284, 289-290.
- ^ 渡辺 2006, pp. 299–300.
- ^ 小林 2011, pp. 232, 235–236.
- ^ 渡辺 2006, p. 288.
- ^ 渡辺 2002a, pp. 87–88.
- ^ 渡辺 2006, p. 292.
- ^ 渡辺 2006, p. 293.
- ^ 菊池 2007, p. 184.
- ^ 渡辺 2006, p. 294.
- ^ 渡辺 2006, pp. 291, 296.
- ^ 渡辺 2002a, pp. 91–92.
- ^ a b 渡辺 2002a, p. 94.
- ^ 小林 2011, p. 233.
- ^ 渡辺 2002a, pp. 95–96.
- ^ 渡辺 2006, p. 313-314.
- ^ 渡辺 2006, p. 317.
- ^ 渡辺 2006, p. 297-298, 308.
- ^ 渡辺 2006, pp. 363–364.
- ^ 渡辺 2006, p. 376.
- ^ 渡辺 2006, p. 369.
- ^ 渡辺 2006, p. 386.
- ^ 押尾一彦 2005, pp. 104–105
- ^ リエリー 2021, pp. 254–262.
- ^ 渡辺 2006, p. 73.
- ^ a b c 片渕 2007, pp. 90–91.
- ^ 秋本 1989, p. 13.
- ^ a b c d e 片渕 2007, pp. 92–93.
- ^ 兵藤 2009, pp. 202–203.
- ^ 野原 2009, pp. 199–201.
- ^ 渡辺 2006, pp. 94–96.
- ^ 渡辺 1999, p. 41.
- ^ 渡辺 1999, pp. 41, 100.
- ^ 兵藤 2009, pp. 202, 205.
- ^ 渡辺 1999, p. 100.
- ^ a b c d 秋本 1989, p. 15.
- ^ 渡辺 2006, pp. 209–211.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 211.
- ^ 渡辺 2006, pp. 190, 211.
- ^ 渡辺 2006, p. 192.
- ^ a b 片渕 2007, p. 96.
- ^ 碇 2006, p. 154.
- ^ 渡辺 2006, pp. 192–193.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 194.
- ^ 野原 2009, p. 201.
- ^ 小山 1992, pp. 143, 150.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 216.
- ^ 渡辺 2006, pp. 213–217.
- ^ 碇 1997, p. 93.
- ^ 碇 1997, pp. 90–92.
- ^ a b 碇 2006, p. 164.
- ^ a b 和泉 1999, p. 40.
- ^ 松代 2007, pp. 64–65.
- ^ 坂本 2002, pp. 10–11.
- ^ 碇 2006, p. 165.
- ^ 碇 1997, p. 90.
- ^ 青木 2004, p. 234.
- ^ 古峰 2007, pp. 138–139.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 213.
- ^ a b 小口 1989, p. 46.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 214.
- ^ a b c d 秋本 1989, p. 16.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 217.
- ^ a b 秋本 1999, p. 121.
- ^ 片渕 2007, pp. 92–93, 96.
- ^ 古峰 2007, p. 153.
- ^ 片渕 2007, p. 94.
- ^ a b 土井 1999, p. 102.
- ^ a b c d 渡辺 2006, p. 306.
- ^ 渡辺 2021, p. 311.
- ^ 渡辺 2021, p. 298.
- ^ 渡辺 2006, p. 319.
- ^ 渡辺 2010, p. 80.
- ^ 渡辺 2010, p. 65.
- ^ 渡辺 2010, pp. 65, 81.
- ^ 渡辺 2006, p. 322.
- ^ a b 渡辺 2010, p. 82.
- ^ 渡辺 2006, p. 307.
- ^ a b c 渡辺 2006, p. 342.
- ^ 渡辺, 2021 & p=373.
- ^ a b 渡辺 1999, p. 247.
- ^ a b 土井 2002a, p. 37.
- ^ 古峰 2007, p. 152.
- ^ キ61「飛燕」初飛行70周年記念展図録『飛燕の時代 改訂版』 P.36. 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館監修. (2016年10月)
- ^ 渡辺 2006, pp. 306–307.
- ^ a b 古峰 2007, p. 156.
- ^ 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館監修 キ61「飛燕」初飛行70周年記念展図録『飛燕の時代 改訂版』 2016年、p37
- ^ 碇 2006, p. 203.
- ^ a b 土井 1999, p. 103.
- ^ 渡辺 2006, p. 382.
- ^ 土井 2002b, p. 20.
- ^ 碇 2006, pp. 233–234.
- ^ 「歴史群像」編集部 2005, p. 91.
- ^ a b 歴史群像編集部 2011, p. 57.
- ^ 「歴史群像」編集部 2005, p. 118.
- ^ 野原 2007b, p. 81.
- ^ 野原 2007a, pp. 37, 49, 55。.
- ^ 碇 2006, p. 183.
- ^ 大塚 2007a, p. 197.
- ^ 渡辺 2006, p. 343.
- ^ 渡辺 2006, p. 340.
- ^ 渡辺 2006, pp. 341–342.
- ^ 渡辺 2006, pp. 343–345.
- ^ 和泉 1999, p. 45.
- ^ 渡辺 2006, p. 344.
- ^ 渡辺 2006, pp. 345–346.
- ^ 渡辺 2006, pp. 350–353.
- ^ 渡辺 2006, p. 401.
- ^ 渡辺 2006, p. 345.
- ^ 渡辺 2006, p. 346.
- ^ 渡辺 2006, pp. 349, 402.
- ^ a b 渡辺 2006, p. 404.
- ^ 古峰 2007, p. 158.
- ^ 大塚 2007c, p. 180.
- ^ a b 片渕 2007, p. 91.
- ^ 秋本実・著 『日本の戦闘機・陸軍編』 1961年、出版協同社、p116
- ^ 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編』2006年、酣燈社、101、p107
- ^ a b c d 渡辺 2006, p. 91.
- ^ a b c d e f 渡辺 1999, pp. 42–49.
- ^ 渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.63
- ^ 碇 2006, p. 117.
- ^ 成美堂出版刊 『太平洋戦争・陸海軍航空機』 P.30
- ^ 荒蒔 2011, pp. 205–206.
- ^ 河野 2009, pp. 96–97.
- ^ 坂本 2002, p. 178.
- ^ 交野市発行「むかし探検」No.11(2012年2月1日)
- ^ 殉国之碑 本土防空 中村純一陸軍中尉
- ^ a b 日本郵趣協会 1997, p. 115.
- ^ 日本航空協会 航空遺産継承基金事務局 (2017年1月15日). 航空と文化 第114号 P.22~23. (一財)日本航空協会
- ^ a b c 岐阜新聞. (2015年9月9日). http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20150909
/201509090919_25690.shtml 2016年2月3日閲覧。 - ^ a b 寺田 1999, p. 126.
- ^ 「飛燕ひと足先に一般公開」『日本経済新聞』昭和40年7月20日夕刊 7面
- ^ カワサキの情熱と技術力で三式戦闘機「飛燕」を復元! マニアたちの驚きのこだわりとは
- ^ 川崎重工、三式戦闘機「飛燕」を修復・復元した実機初公開
- ^ 寺田 1999, p. 127.
- ^ 『航空ファン』文林堂、2009年9月号 pp.97-99、2011年9月号 pp.102-104
- ^ Pacific Wrecks Ki-61II 379
- ^ Pacific Wrecks Ki-61II 640
- ^ 『月刊・丸』潮書房光人社2014年2月号エメラルドの海から海底に眠る飛燕
- ^ Pacific Wrecks 現存する残骸一覧
- ^ “三式戦闘機「飛燕」茨城で蘇る 実機買ったけどあえて「レプリカつくろう」依頼人の思い”. 乗りものニュース (2023年3月3日). 2023年12月4日閲覧。
- ^ “カワサキが誇る名機「飛燕」をドレミコレクションが初公開へ! 【Webike Festival 2023】”. ヤングマシン (2023年8月10日). 2023年8月10日閲覧。
- ^ “西日本の新名所になるか 戦闘機「飛燕」のミュージアム開館日が決定! 見学方法は?”. 乗りものニュース (2024年4月5日). 2024年4月9日閲覧。
- ^ “戦闘機「飛燕」実物大で再現 倉敷の企業、4月に県内で披露”. 山陽新聞デジタル. 山陽新聞 (2024年2月29日). 2024年3月2日閲覧。
[続きの解説]
「三式戦闘機」の続きの解説一覧
固有名詞の分類
- 三式戦闘機のページへのリンク