F-1支援戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/09/29 05:31 UTC 版)
三菱 F-1
F-1 支援戦闘機(えふわん しえんせんとうき)は日本の航空自衛隊で使用された支援戦闘機、または戦闘爆撃機である。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。
後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18)3月9日に全機が退役した。
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概要
三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。愛称は特にない。
日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイル「ASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。
総計77機が製造され、三沢基地の第3航空団第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する空対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦(要撃任務)での不安も抱えていた。
2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。
開発経緯
超音速練習機開発
日本では、F-104の第一線配備に伴い、余剰となった米国製のF-86を戦闘爆撃機として配備し、支援戦闘機(隊)とした。だが、F-86は航続距離が短く兵装搭載量も不足して対地・対艦攻撃能力が低かったことや、1947年初飛行の機体では老朽化が迫り用途廃止になる機体が出てくることから、すぐにも代替機が求められた。そこで次期支援戦闘機の研究を防衛庁(現防衛省)技術研究本部で開始し、後継機を超音速高等練習機とその派生型である攻撃機型で充てる計画を立てた。
同時期にイギリスとフランスの共同で超音速練習機/攻撃機、後のジャギュアを開発し、高い費用対効果を上げようという試みが国内開発へのはずみにもなったものの、前回のF-X候補のひとつで、F-104に敗れたノースロップ N-156F(後のF-5、T-38)が、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた[1]。
防衛庁内には米国製のT-38練習機とF-5戦闘機を導入すべきだと強力に主張する勢力があり、また制服組からも純技術的経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。新規開発する費用を含めた経済性だけで見ればT-38/F-5が優勢であったが「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。
支援戦闘機開発計画
これにより、超音速高等練習機T-2は支援戦闘機への転用を前提として開発され[出典 1][出典 2]、T-2開発完了直後から、「次期支援戦闘機(FS-X)開発計画を開始し、T-2からFS-Xを改造開発することとなった[2]当時「支援戦闘機」としたのは自衛隊の性格上あくまで侵略に備える地上部隊を支援するという事をアピールしたいためであった。
「技本(防衛庁技術研究本部)の技術陣は、我が国初の対地支援戦闘機F-1の開発に着手した。昭和五十年度から量産がはじまった。こうして国産初の超音速戦闘機F-1は誕生したのであるが、航空自衛隊に「支援戦闘機」という新しいジャンルを確立した。といってもべつに変ったものを作ったわけではなく、我が国の場合「戦闘爆撃機」という言葉を使用してはいけない(と思ってるらしい)ので、支援戦闘機とした。本来なら戦闘爆撃機とすべきものである。」 --防衛研究会編『防衛庁・自衛隊』かや書房刊1992年改訂版280頁より
このため、FS-Xは「FS-T2改」と呼ばれ、まず2機のT-2を改造して原型機を試作することとなった[出典 1][出典 2]。この改造に使われたT-2は「T-2特別仕様機」と呼ばれた。
詳細は「支援戦闘機」を参照
T-2からFS-T2改への改造点として、以下が挙げられる。
- 後席を廃止して複座から単座へ変更し、空いた後席部に電子機器を追加搭載する[3]
- 火器管制装置(FCS)の更新(T-2後期型で搭載したものを発展させる)
- 兵装投下コンピュータの搭載
- 慣性航法装置の搭載
- レーダー警戒警報装置(RHAWS)の搭載
- 電波高度計の搭載
調達開始
1972年(昭和47年)2月7日の国防会議で策定した第四次防衛力整備計画によって、次期支援戦闘機FS-T2改を68機調達することとなり、開発が決定した。翌年には1974年(昭和49年)度予算にて2機分の試作が認められたため、三菱重工業は生産ラインにあったT-2の6号機(#59-5106)と7号機(#59-5107)を特別仕様機として改造を開始した。この年からFS-T2改の主兵器となるXASM-1の開発も開始された。1975年(昭和50年)6月3日に火器管制装置等の電子機器の実験機である#107が初飛行、6月7日に性能試験、飛行特性試験、フラッター試験機の#106が飛行した。機体システムに支出された予算は4億2,000万円、電子装置には7億6,300万円であり、機体改造は最小限にとどめて、開発は電子機器類を中心に行なわれた。
機体自体に大きな変更を加えられておらず、基本データはXT-2の時に取得済みだったので、#106の試験は早々と終了し、2機による電子機器の試験が行われた。翌7月から航空実験団と防衛庁技術研究本部(TRDI)による技術試験が行われ、翌1976年(昭和51年)3月に終了した。さらに8か月にわたって実用試験が行われた後、11月12日に部隊使用が認可され、FS-T2改にはF-1の制式名称が与えられた。試験に使用された2機のT-2特別仕様機は、量産化改造されずに航空実験団に残され、新兵器開発に利用された。
1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機(#70-8201)は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入された。その後、10年に渡って量産され、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した[4]。
防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、大量生産による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。
F-1の発表の際、イギリスの航空雑誌は、かつて零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を開発した三菱が、再び戦闘機を開発したと言うことで、「ゼロから1へ」と紹介していた。
機体
基本構造
機体は、後部座席を取り外して電子機器を搭載した点以外T-2からの大きな変化は無く、特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる。主翼は非常に小さく、また厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている。
機体後部下にはT-2同様ベントラルフィンが付く。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。ただし、コックピット風防は低空侵攻任務が多くなることからバードストライク(鳥の衝突)対策として運用途中から一体強化型に変更されている。T-2もブルーインパルス専用機などは同種のワンピースタイプを装備していた。
塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。
T-2/F-1の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している[出典 3]。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。またT-2の主翼は優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないので[5]、ドロップ式の増槽 220ガロン(833リッター)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した[出典 4]。
またF-1(T-2)は、英仏共同開発のジャギュア攻撃機との形状の類似が指摘されるし、またエンジンも元を正せばジャギュアと同じアドーアである[6][7]。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの削り出し一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる[出典 3]。
電子機器
T-2に追加して搭載された電子機器を以下に挙げる。
- J/AWG-12 火器管制レーダー
- J/ASQ-1 兵装投下管制コンピュータ
- J/ASN-1 慣性航法装置(INS)
- J/AWA-1 対艦ミサイル管制装置(ASM-1対応)
- J-APN-44 電波高度計
- J/A24G-3 エアデータコンピュータ
- J/APR-3 レーダー警戒警報装置(RHAWS)
すべてが国産で開発された火器管制装置(FCS)は、J/AWG-12とJ/ASQ-1を中心に構成され、INSや電波高度計などから入力情報を受けて演算処理を行い、攻撃を含む操縦に必要な情報をヘッドアップディスプレイ(HUD)に表示する。これらによって、地上からの航法支援が無くとも敵レーダー領域をかいくぐっての攻撃が可能であった。1985年からは自動操縦装置が順次全機に搭載された。
1980年代に実用とされた世界中の戦闘機の中でも特に珍しい点は、F-1が自己防御用の電子機器を一切備えていなかったことである。世界的に戦闘機に自己防御電子機器が必要不可欠となったのは1980年代前半であり、F-1の開発と生産が始まった1970年代には当時の最新電子装置であったレーダー警戒警報装置の搭載によって十分に高性能機となっていたが、その後、対空兵器の技術進歩に対応して多くの戦闘機が最低でもチャフやフレアを備え、多くが電子妨害装置を外装できるようになっても、F-1は2006年の退役まで終始無防備なままであった[8]。
エンジン
エンジンはT-2開発当初からロールス・ロイス/チュルボメカ製「アドーア(Adour)」[9]ターボファンエンジンが最有力候補とされていた。これはアドーアの燃費が優れていたためであるが、米ジェネラル・エレクトリック社はGE1/J1A1と呼ばれるエンジンを提案して対抗した。しかしGE社のエンジンは開発途上でありその後に計画は中止されたために検討対象とならず、結局1968年2月15日にロールスロイス/チュルボメカ アドーア RT.172 Mk102の日本国内ライセンス生産品[10]がXT-2用エンジンとして採用され、この航空自衛隊発のターボファンエンジンがT-2用となり、そのままF-1にも引き継がれた[11]。
一方で最大の問題点とされるのは、このエンジンの非力さである。元のT-2に比べると、電子機器の搭載をはじめ各種改造によって自重は6,197kgから6,550kgへ、全備重量は11,464kgから13,700kgに増加した。また、武装や機外搭載物の無いクリーン状態ではT-2と重量差は少ないが、兵装を満載したF-1はT-2に比べて極端に重量が増す。しかし予算の制約からエンジン推力増強を含む改修は初期生産型の登場後も一切行われず、爆装時のF-1の運動性能はかなり劣り、離陸時においてもアフターバーナーの使用が不可欠になったままだった[12]。
エンジンは斜め下方に向けて取り付けられていた。エンジン整備のための搭載卸下時には整備員に熟練技術が求められ、余分な時間も掛かった。駐機エプロンのアスファルトは高温のエンジン排気で溶けるため、耐熱舗装に改修された。メンテナンス用機材やボルト類の種類と数が他機に比べて多く必要で整備性が悪かった。
武装
- 携行可能兵装
- ハードポイントは胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7箇所にあり、ここに以下の兵装を最大2.72tまで搭載可能であった。
- 空対艦ミサイル
- F-1の主任務である対艦戦闘時には、F-1と同時開発した国産の空対艦ミサイル(対艦誘導弾)ASM-1を両翼下に各1発ずつ、合計2発を装備する。ASM-1は中間誘導をF-1からの慣性誘導、終端誘導のアクティブレーダー誘導にて行い、ロケット推進によって約50kmの射程を得た。
- 後にASM-2も搭載可能な様に一部の機体は改修されたが、基本的にはF-1では運用できなかった[出典 4]。ASM-2は終端誘導を画像赤外線誘導に変更し、ロケット推進からターボジェット推進に変更することで射程を延長した。
- 爆弾
- 対地攻撃用には、JM117 750ポンド爆弾を5発、Mk.82 500ポンド爆弾を胴体下に4発、両翼下に各4発ずつ、合計12発を搭載可能である[13]。ただしこのように兵装でハードポイントを使い尽くせば増槽を搭載できないので、攻撃任務の飛行距離にもよるが実際に5発+12発という爆弾だけを満載する組合せは少ないと考えられた。Mk.82 は弾体に赤外線誘導の91式爆弾用誘導装置(GCS-1) を付加すれば赤外線式の精密誘導爆弾となる。
- CBU-87/B クラスター爆弾も JM117 同様に、最大で5発の搭載が可能であった[14]。
- 空対空ミサイル
- 赤外線誘導方式の短距離空対空ミサイルであるAIM-9サイドワインダーを両翼端と両翼下1箇所にそれぞれ1発ずつ、合計で4発まで搭載可能であった。F-1は対地/対艦戦闘に主眼を置いて開発されており、対空戦闘能力は決して高いものではないが、アラート任務に就くことも可能であった。
- なおAIM-7 スパロー等のセミアクティブ・レーダー誘導方式のミサイルの運用能力は無い。
- ロケット弾ポッド
- ロケット弾ポッドは、70ミリ×19発を収めるJLAU-3や、127ミリ×4発のLR-4、70ミリ×7発のLR-7のいずれかを翼下に4基搭載できた。またこれらを混載することも可能であった。
能力上の課題
当機は北海道に上陸が想定されるソビエト連邦軍を撃滅するために青森県の三沢基地に配備されたが、ソ連の新型機MiG-23は航続距離が長く、三沢基地を攻撃圏内に収めていた。これはF-1の開発中、航続距離の短いMiG-21が念頭にあったためである。よって有事の際は遠方の基地に配備することになるが、その場合は兵装を犠牲にして増槽を取り付けなければならず、増槽を付けると重くなり運動能力がさらに低下することになった。
電子機器室にした元の後席部分にキャノピーを残す案は、コスト高に繋がると採用が見送られたため、T-2に比べて極端に後部の視界が悪く、これが独特な旋回特性と共に戦闘機としての能力を削いだ。また、就役当時は世界屈指の性能を持つレーダーFCSもアップデートが行われないことから陳腐化が進み、昭和50年代後半のFSX論議の際には「性能が悪いから後継機を開発するという支援戦闘機が、(FSXを国産化するため、F-1を延命して開発の時間を稼ぐことに対して)能力の向上なく整備点検方法の見直しだけで機体の延命をはかるのはどういうことか」と国会での追及も受けた。
同時開発の国産空対艦ミサイルであるASM-1とF-1の組み合わせは「航空機による対艦ミサイル攻撃」という戦術において、米国とフランスともほぼ同時期でのものであり、世界の最先端であると言えた。高翼面荷重の設計は搭載量と運動性の面で不利をもたらしたが、反面横風に対する安定性と空気抵抗の減少により、低空侵攻能力においては有利となった[15]。三沢基地に当時の最新鋭機であるF-16が配備された後であっても、その対艦攻撃力は、アメリカ海軍は有していたがアメリカ空軍では有しないものであり、東西冷戦期において対ソ抑止力となる重要な戦力であったと言える。しかし、戦闘機としての能力の陳腐化は避けられなかった[16]。
運用
調達数の変遷
第4次防衛力整備計画(4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際にはオイルショックによる財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また1976年(昭和51年)10月に閣議了承された「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)。
配属飛行隊
- 第3航空団第3飛行隊(三沢基地)1977年(昭和52年)9月 - 1978年(昭和53年)3月31日配備完了。
- 第3航空団第8飛行隊(三沢基地)1979年(昭和54年)6月 - 1980年(昭和55年)2月29日配備完了。
- 第8航空団第6飛行隊(築城基地)1980年(昭和55年)3月 - 1981年(昭和56年)2月28日配備完了。
退役
当初は1990年(平成2年)度より最初の飛行隊の更新が必要とされ、56年度中期業務見積もり(昭和58年-62年)では次期支援戦闘機(FS-X)の調達が計画されたが、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、当初予定より年間飛行時間が少なかったことより、更新は1997年(平成9年)度からとされ、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。しかし、FS-X(現F-2A/B)は開発の遅れによって1997年からの配備が不可能になったため、用途廃止の発生する1997年より、小松基地第306飛行隊(要撃戦闘機飛行隊)のF-4EJ改を支援戦闘機に転用し、新・第8飛行隊を編成した(また、その分の要撃戦闘機飛行隊の定数を補完するため、F-15J/DJの追加調達が行われた)。
第3飛行隊を更新するF-2は、2000年(平成12年)10月2日に設置された「臨時F-2飛行隊」に配備が始まり、2001年(平成13年)2月27日に臨時飛行隊が第3飛行隊となり、F-2へ転換された。築城基地第8航空団第6飛行隊では2003年(平成15年)11月、60-8274号機のF-1に最後のIRAN(製造企業による定期修理)が行われ、最後まで残った7機は2006年(平成18年)3月9日に退役、F-2へ転換された。この退役機のうちの1機は基地展示用に保存される。
その後、量産1号機(#70-8201)は入間基地に保管されていて、航空祭の時に他機と並んで地上展示されている。
事故
仕様
- 乗員: 1名
- 全長: 17.85m(ピトー管含む)
- 全幅: 7.88m(翼端ランチャー含まず)
- 全高: 4.45m
- 主翼面積: 21.17m²
- 主翼前縁後退角: 42.29度
- 下反角: 9度
- 基本運用重量: 6,550kg
- 最大離陸重量: 13,700kg(30,140ポンド)
- 燃料搭載量
- エンジン: IHI TF40-IHI-801A ×2基
- 推力: アフターバーナー使用時 32.5kN(3.31t) / 非使用時(ミリタリー) 22.8kN(2.32t、4,710ポンド=2.1tという情報もある)
- 最大速度: M1.6
- 失速速度: 117ノット(フラップと脚を下げた状態)
- 航続距離: 機内燃料のみで150海里、3個の増槽を加えたフェリーで約1,400海里
- 戦闘行動半径
- 要撃戦闘時(AAM×2、機内燃料のみ): 150海里
- 対地攻撃時(500ポンド爆弾×8、増槽×2): 190海里
- 対艦攻撃時(Hi-Lo-Hi飛行、ASM×2、増槽×1): 300海里
- 荷重制限: +7.33〜-3G
- 実用上昇限度: 約5万フィート(1,5240m)
- 固定武装: M61A1 ガトリング式機関砲×1門(750発)[出典 4]
- 兵装類最大搭載重量: 2720kg
登場作品
詳細は「F-1/T-2に関連する作品の一覧」を参照
脚注
- ^ N-156F は後にアメリカ空軍で練習機・軽戦闘機として採用される機体であるが、これは1960年代当時にアメリカ空軍で主流であった「戦闘機パイロットの養成には超音速高等練習機が必要である」と言う考え方が働いていた。超音速飛行そのものが特殊であるとされた時代の認識を引きずったものであり、アメリカ空軍ではせっかく採用したT-38を用いての訓練でも、ほとんど超音速を用いなかったが、この論そのものは日本の航空機開発と戦闘機搭乗員養成に大きな影響を与えた[要出典]。
- ^ T-2の開発当初から複座式のT-2から単座式の新型支援戦闘機を派生開発する計画であり、改造が最小限に済むように考慮された。
- ^ T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された。
- ^ T-2はF-1より1年長く、1988年まで生産された。
- ^ ジャギュアの機内搭載燃料4,200Lに対してF-1は3,823Lであった。
- ^ 「ジャギュアに似ている」と言われることについては、単にジャギュアの真似をしただけとする意見もあるものの、一方でF-1とジャギュアは共に同一のエンジンを用いる双発機であり、更に速度等の要求も似ているため、そこから導き出される機体形状が両者共に似てくることも事実である。ただしT-2/F-1の場合、形状こそジャギュアに似ているが、その機体設計に際してはむしろF-4 ファントムIIの手法を多く用いているとされる。エアインテーク、元になったT-2のキャノピーのデザインはF-4に近い。また当時の重いエンジンを重心に配置したままテイルブームを伸ばして尾翼との距離をとり、排気ノズル後方でいわゆるペン・ニブ型の処理を行うという方式は、かつてF-4で採られた手法を援用している。この点はT-2/F-1もジャギュアも同様だと言える。ちなみに、日本ではまず始めに高等練習機としてT-2を求めた上で、そこから支援戦闘機型のF-1を派生させたのに対し、英仏ではイギリス空軍、フランス空軍、フランス海軍各型合わせて200機の攻撃型のジャギュアを求め、その上で高等練習機型を派生させており、対照的といえる。
- ^ 欧州と日本の航空機開発における練習機と戦闘爆撃機の開発優先度の違いは、運動特性や座席配置から読み取れる[要出典]。日本ではまず練習機であるT-2を開発してから後席を除いた単座型の戦闘爆撃機としたのに対して、英仏では練習型ジャギュア開発に際し単座型の機首に前席を追加している。しかし、そのことからF-1は、キャノピー部分が水滴型ではなく座席後部で区切られ、後部の視界が悪くなってしまった。このことは配備当初から問題となっていたが改善されることはなかった。
- ^ 一部機体は外装式電波妨害装置、外装式チャフ・フレアディスペンサが搭載可能であった。
- ^ ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーアはフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、米国、インド、オマーン、エクアドル、ナイジェリアなどに輸出されている。
- ^ TF-40-IHI-801A。製造は石川島播磨重工。
- ^ 島国の日本で攻撃してくる敵を迎撃しようとすれば洋上に出るしかなく、ジェット戦闘機の発着できる滑走路が軍用、民間を合わせても限られる国情から、航空自衛隊の運用における安全性への要求は艦上機のそれに近い。また、単発のF-104Jの墜落事故が多発したこともあり、防衛庁では双発を望む声が強かった。
- ^ ただし、アドーア自体はF-1開発当時でも優れたエンジンのひとつであり、F-1やジャギュア以外にもイギリスのホーク練習機にも採用され、2,500基以上が生産されている。初期型のRT172 Mk102(T-2/F-1のTF40-IHI-801Aと同型)はアフターバーナー時推力7,303ポンドだが、最新版のRT.172Mk871は11,249ポンドに達している。
- ^ 胴体下ハードポイントに4射出架を介し、主翼下各2箇所ずつのハードポイントにそれぞれ2射出架を介する。
- ^ 西側の先進工業国の空軍では、クラスター爆弾禁止条約のように国際世論の反発によってクラスター爆弾を配備から外す傾向があり、日本でも2009年に国会で本条約の承認が完了しているため、航空自衛隊はこれらを破棄すると考えられる。
- ^ この点は西ドイツ空軍(現 ドイツ連邦空軍)におけるF-104の運用と同一であり、なおかつ双発である事から単発のF-104よりも安全性の有利をもたらした。
- ^ 戦闘機能力の陳腐化は当初より折込済みとはいえ、対領空侵犯措置任務まで付与されるだけのものがあったかといえば疑問である[要出典]。三沢基地にF-16が配備されて以降、同じく三沢に展開するF-1とのあいだでDACT(異機種航空格闘訓練)が繰り返されたが、高速旋回時の失速が空戦時には決定的なハンデとなり、結果は惨憺たるものであった。仮に実戦になり、侵攻した敵の上陸地点に多数の地対空ミサイルや対空火器が配備され濃密な防空網を張られている状態や、敵艦船上空に要撃戦闘機を配備されているような場合、これらを排除して目的を達することは到底難しかったと思われる[要出典]。戦術電波妨害(ECM)機や敵防空網制圧(SEAD)任務機等によるサポート体制が整わない、あるいは能力向上を殆ど行わない事等、防衛庁の運用思想にも問題があると言われることがある[要出典]が、それでもスタンドオフ性の高いASM-1を使用した対艦船攻撃能力にF-1の支援戦闘機としての唯一の戦略的価値を見出すことができる[要出典]。
出典
- ^ a b 赤塚聡 (2006)「F-1の開発―T-2からの改修点」『世界の傑作機 No.117 三菱F-1』文林堂 p.30
- ^ a b 久野正夫 (2006)「航空自衛F-1運用史」『世界の傑作機 No.117 三菱F-1』文林堂 p.50
- ^ a b 木村秀政・田中祥一『日本の名機100選』文春文庫 1997年 ISBN 4-16-810203-3 252-253pp.
- ^ a b c 宮本勲 『日本初の国産戦闘機 F-1の開発と能力と実績』 「空自F-2/F-1戦闘機と世界の戦闘攻撃機」軍事研究2009年8月号別冊、ジャパン・ミリタリー・レビュー、2009年8月1日発行、ISSN 0533-6716
参考文献
- 月刊『Jwings』誌 - イカロス出版
- 月刊『航空ファン』誌 - 文林堂
- 月刊『航空情報』誌 - 酣燈社
- 『戦闘機年鑑』2005-2006年度版(イカロス出版)ISBN 4-87149-632-5
- 『日本はなぜ旅客機を作れないのか』 - 前間孝則(草思社)ISBN 4-7942-1165-1
関連項目
- T-1 (練習機)
- F-2 (航空機)
- 類似する航空機
- SEPECAT ジャギュア
- Soko J-22
- JH-7
- Q-5
- 日本製航空機の一覧
- 航空自衛隊の装備品一覧
- T-2 (航空機・日本)
外部リンク
F-1 (航空機)
三菱 F-1
F-1(エフワン/エフいち)は、日本の三菱重工業が開発した第3世代ジェット戦闘機。同社のT-2高等練習機の発展型であり、航空自衛隊で支援戦闘機(事実上の攻撃機または戦闘爆撃機)として運用された[1]。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。その後、後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18年)3月9日に全機が退役した。
概要
三菱重工業が製造したT-2高等練習機を発展させた第3世代ジェット戦闘機であり、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した戦闘機でもあった。航空自衛隊では支援戦闘機と分類しているが、能力的には攻撃機ないし戦闘爆撃機と称されるべき機体であり[1]、ジェーン年鑑 (Jane's All the World's Aircraft) では"close support fighter"と称している[2]。また日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、初期段階から空対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃が想定され、国産の80式空対艦誘導弾(ASM-1)の搭載能力を有していた[3]。
T-2をもとにした試作機である特別仕様機(FS-T2改)が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。総計77機が製造され、三沢基地の第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第6飛行隊に配備された。空対艦ミサイルによる対艦攻撃や高精度の爆撃による対地支援では期待されていた一方[4]、機動性の低さから、要撃任務など空中戦闘機動での不安も抱えていた[5]。
後継となるF-2の開発遅延もあって長く現役にとどまったが、2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていた最後の機体が退役し、運用を終了した[4]。
来歴
XT-2の開発

航空自衛隊では、全国で待機態勢をとるために、13個飛行隊の戦闘機が必要であると算出しており、このうちの3個は、着陸又は上陸する侵攻部隊に対する海上又は地上での阻止攻撃を任務とする支援戦闘機部隊とされていた[6]。この戦闘爆撃機としては、F-104の導入に伴って余剰になったF-86Fが充当されてきたが、老朽化に伴って、遠からず退役することになっていた。第2次F-Xとして、1969年にはF-4EJが選定されたものの、これでF-86Fが退役した穴を埋めるには予算が足りない上に、国会での議論を受けて、爆撃計算機能が削除されており、戦闘爆撃機としての機能は低下していた[7]。
1967年より、火器管制レーダーを搭載した超音速機であるF-104の乗員を育成するための高等練習機として、T-2の開発が進められていたが、開発側では、練習機だけでは生産数が少なくコストが上昇することから、これを元に支援戦闘機に転用し、生産数を増やして単価を低減するという案を抱いていた[8]。また用兵側としても、これを武装化した場合、搭載量としてはF-4EJには及ばないものの、現用のF-86Fよりは遥かに上回り、また戦闘機開発能力の涵養にも繋がることから、T-2を元にした支援戦闘機を開発してF-4とハイ・ロー・ミックス運用とすることが構想されるようになった[7]。これにより、T-2は「F-86Fの後継機として戦技訓練が可能で支援戦闘の潜在能力をもち、かつ超音速飛行の能力を有する練習機」として[9]、支援戦闘機への発展を前提に設計されることになった[10]。
FS-T2改への発展

1971年12月15日にXT-2一号機が納入され、開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された[8]。この支援戦闘機型はFS-T2改と呼称されており、1972年6月に航空幕僚長から要求性能が上申され、7月24日の装備審議会で基本要目を決定[11]、10月9日の国防会議で装備方針が正式に決定された[10]。
なお、T-2の開発にあたっては、もともとアメリカ製のT-38を採用する予定であったものを、技術研究本部の守屋富次郎本部長の運動もあって[8]、松野防衛庁長官の指示により、航空自衛隊の反対を排して国産開発に変更されたという経緯があったが[11]、その後も、F-1の量産決定に至るまで、国産機ではなくT-38/F-5を採用するべきであるという圧力を受け続けた[7]。1972年10月の第4次防衛力整備計画決定直前の国防会議議員懇談会でも、F-5Eへの変更を主張する意見が出た。これに対し、政府側は、既に購入が開始されているT-2練習機との相互運用性や日本の国土への適合性に優れ、またレーダーや爆撃照準装置を備えており性能面でも優れることを説明して理解を得た。その後、F-4EJで削除された爆撃照準機能を本機が備えていることが問題視されたが、こちらは航続距離の短さのために周辺諸国への脅威とはならないことを説明して理解を得た[4]。
1973年3月末、三菱重工業にシステム設計、三菱電機に火器管制装置(FCS)が発注されて、年度明け早々から作業が始まった。設計にあたっては、極力、T-2との共通化が配慮されており、モックアップはコクピットや外部搭載物周りの最小限に留めて、1973年5月には細部設計に入った。同年3月に契約されたT-2の第1次契約のうち、T-2量産2号機(#106)および3号機(#107)はFS-T2の飛行試験用テストベッド機とされており、このシステム設計で作成された図面による特別仕様機として製作された。1975年6月3日に107号機、6月7日には106号機が初飛行して[11]、1975年7月末より航空実験団による飛行試験が開始された。1976年3月までに213ソーティのフライトが実施され[10]、その成果は「FS-T2改技術的試験・実用試験報告書」としてまとめられた。装備審議会を経て、1976年11月12日に防衛庁長官の部隊使用承認が下され、名称も「F-1」と改められた[11]。
設計
上記の経緯より、本機の設計の多くはT-2のものが踏襲されており、飛行特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる[10]。多彩な装備にもかかわらず整備性はよく、機体のトラブルで墜落したことのない、信頼性の高い支援戦闘機であった[8]。
なおF-1/T-2は、外見的には英仏共同開発のジャギュア攻撃機との類似が指摘されるが、内部構造は大きく異なっており[12]、設計思想においてはむしろF-104の影響が大きかった[13]。
機体構造

胴体の基本構造は、強力縦通材 (Longeron) と円框で構成される通常のモノコック構造を採用している。機首には火器管制レーダーのアンテナを収容するFRP製のレドームが設けられており、その直後は電子機器や液体酸素コンバータなどの収容スペースとなっている[10]。
その後方には与圧式のコクピットが配置されている。風防は、当初はT-2と同様の三分割式のものが用いられていたが、後に強度の高いポリカーボネートによるワンピース型に換装された。射出座席はゼロ高度・ゼロ速度で脱出可能なダイセルのES-7Jが採用された。T-2で後席とされていた部分は電子機器室とされており、この部分はキャノピーではなく金属製の外板とされている[10][注 1]。なおこの配置では、操縦席後方が隆起しており後方視界を大きく阻害することから、設計段階では、むしろ後席を残して前席部分を電子機器室とすることも検討されたものの、T-2からの設計変更がかなり大規模になることから、棄却された[7]。
クリップド・デルタ型の主翼は高翼配置とされており、9度の下反角が付されている[14]。後退角を付して翼面荷重が高い主翼はT-2で採用されたものであったが、支援戦闘機として低空を高速で飛行するのにも適した特性であった[7]。その一方で、優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、主翼内に燃料タンクを設置できず、燃料搭載量が少なくなったため[注 2]、ドロップ式の増槽220ガロン(833リットル)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個を機外に搭載して対応した[16]。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている[10]。
T-2/F-1の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している[12]。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。
使用材料の比率は下記の通りであった[10]。
また本機では、対地攻撃用に用いられることを想定して、迷彩塗装が導入された。上空から発見されにくくするため、機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。これは米空軍やNATOの迷彩方法を参考に、F-86F 3機に対して、日本の風土条件にあった3種類の塗装を施して比較検討した成果を踏まえたものであった[4]。
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F-1(百里基地の展示機)
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T-2(ブルーインパルス仕様機)とF-1
エンジン
エンジンも、T-2と同様にロールス・ロイス/チュルボメカ製アドーアRT.172 Mk102を石川島播磨重工がライセンス生産したTF40-IHI-801Aターボファンエンジンが搭載された[注 3]。T-2の開発にあたっては、途中でゼネラル・エレクトリック J79やGE1/J1も俎上に載せられたものの、結局、当初予定通りにアドーアが採用されたという経緯があった。低空でのミッションを重視する支援戦闘機として考えると、飛行プロファイルが類似するジャギュア攻撃機に搭載されたアドーアであれば特性的に適合するのに対し、J79は高空・高マッハで推力が急増する特性があり、これを搭載する場合、飛行プロファイルを要撃機に近いものに改訂する必要があった。またGE1も、支援戦闘機の飛行プロファイルには必ずしも適合しないうえに、この時点で未完成で搭載機もないなど不確定要素が大きかったため[注 4]、アドーアが採用されたものであった[13][注 5]。
しかしジャギュアは攻撃機であったのに対し、F-1は支援戦闘機として、平時にはスクランブル(対領空侵犯措置)などにも従事しており、特に空中戦闘機動におけるエンジンの推力不足が重大問題となった[注 6]。アメリカ空軍のF-16と異機種間空戦訓練 (DACT) を行う際には2機のF-16に対して3機のF-1であたるのが通例であったが、戦術面の工夫で撃墜を得る例もあったとはいえ、基本的には常に劣勢を強いられており、アメリカ側から「3機のF-1を相手にしても得るものがなく、6機にしてほしい」との要望を受けたこともあった。また構造上、アフターバーナーを使用する際のスロットル操作に微妙な制限があり、パイロットの負担となった[5]。
アドーアは開発後間もないエンジンであり、頻繁に改良や設計変更が行われたこともあって、サポート面でも多くの困難が生じた。ジャギュアとは運用も異なることもあって、日本特有の不具合も発生したことから、石川島播磨重工では、ロールス・ロイスとも協議しながら日本独自の改善策を講じて問題を解決していった。また生産性についても、同社流に改善して大幅にコストダウンしたものも多かった。これらの経験は、その後、F-15Jのプラット・アンド・ホイットニー F100、F-2のゼネラル・エレクトリック F110のライセンス生産でも活かされた[17]。
装備
電装
電子機器については、T-2と比して大きく変更されており、下記のような機器が追加ないし変更されている。
- J/AWG-12 火器管制システム (FCS)
- J/ASQ-1 管制計算装置
- J/ASN-1 慣性航法装置 (INS)
- J/AWA-1 対艦ミサイル管制装置(ASM-1対応)
- J/APN-44 電波高度計
- J/A24G-3 対気諸元計算装置(ADC)
- J/APR-3 レーダー警戒警報装置 (RHAWS)
J/AWG-12火器管制システム (FCS) は、T-2の後期型で搭載されたJ/AWG-11火器管制レーダーの改良型を中核として、97JP-1改光学照準器を連接したものである。使用周波数はKuバンド、アンテナはスロットアンテナをアンテナ素子としたプレーナアレイ式という主要諸元は踏襲されたが、グラウンドマッピングやASMモードなどが追加された。ASMモードは、空対艦ミサイル(ASM)の運用のため、ペンシルビームによって遠距離を集中的に捜索するもので、最大探知距離は、レーダー反射断面積(RCS)数千平方メートルの艦船に対して最大40海里(約72 km)程度とされている。ただし本レーダーは単なるパルスレーダーであり、クラッター排除能力を持たないため、実運用での探知距離はもっと短くなるものとみられている[3]。
J/AWG-12のほか、J/ASN-1やJ/APN-44、J/A24G-3と連接されて射撃計算を担当するのがJ/ASQ-1管制計算装置であった[10]。特にそのデジタルコンピュータは、F-4EJとの対比において、技術的に注目されたところであった[18]。無誘導爆弾については弾着点連続計算(CCIP)と投下点連続計算(CCRP)の2つの攻撃モードがあり、非常に爆撃精度が高く、共同訓練で地上標的に連続で直撃させて米軍関係者を驚嘆させたこともあった[3]。特にCCIPでの弾着精度は良好であったが、予算上の理由から爆弾用のモードしかなかったことから、ロケット弾や機銃にも適用できるように、部隊レベルで基盤が自作された[19]。
T-2では照準機能だけに使用されていた光学照準器はHUDにアップグレードされた[20]。また自動操縦装置(AFCS)の搭載は、一度は予算の都合で断念されたものの、運用試験を踏まえて昭和54年度より低高度・高速飛行用に初の国産システムとして開発が開始された[20][4]。昭和60年度にC-9契約の272号機から採用され、他の機体にもIRANの際に順次に搭載されていった[10]。
電子戦支援のため、F-4EJに採用されたJ/APR-2をもとにしたJ/APR-3レーダー警報受信機が搭載されており、機首側面と垂直尾翼先端に受信用アンテナが装備されて、T-2との外見上の相違点になっている。電波妨害装置(ECM)の搭載もプロビジョンとして計画されていたが、実現しなかった[10]。またチャフやフレアも搭載されず、スピードブレーキにチャフを挟み込むという原始的な手法に頼らざるを得なかった[19]。
装備品に占める国内開発品の割合(金額比)は56.5%、ライセンス生産品が41.8%、輸入品が1.7%であった[21]。
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コクピット(264号機)
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J/AWG-12 レーダーアンテナ及びシンクロナイザ
兵装
機首の左下方にJM61A1 20mmバルカン砲1基(弾数750発)を固定装備するほか、胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7ヶ所のハードポイントを備え、下記のような様々な武装を搭載できた[10]。
- 空対艦ミサイル
- 対艦兵器として80式空対艦誘導弾(ASM-1)を両翼下に各1発ずつ、合計2発を搭載できる[16]。これはF-1とほぼ平行して開発された国産の空対艦ミサイル(対艦誘導弾)であった。また後に、一部の機体は発展型の93式空対艦誘導弾(ASM-2)の搭載にも対応したが[22]、本機ではその性能を生かせないことから、実際に搭載された例は極めて少なかった[3]。
- 航空機搭載爆弾
- 無誘導爆弾としては、JM117 750ポンド爆弾またはCBU-87/B クラスター爆弾であれば5発、Mk.82 500ポンド爆弾であれば計12発[注 7]を搭載可能であった。ただし実際には、増槽を搭載するため、全てのハードポイントに兵装を搭載することはなかった[14]。
- また後に、JM117ないしMk.82に91式爆弾用誘導装置(GCS-1)を装着して赤外線誘導の誘導爆弾にできるようになると、本機にはその運用能力も付与され、J/ASQ-1管制計算装置にはRCCD(Release point computing with continuous data)とRCIDの2つの攻撃モードが追加された。これによって諸元は自動で取り込まれ算出されるようになったため、目標取り込みを手動で行う必要があるF-4EJ改よりも優れた爆撃精度を発揮できると言われている[3]。
- 空対空ミサイル
- 上記の通り、本機は支援戦闘機として平時のスクランブル(対領空侵犯措置)に従事し、また対艦攻撃・対地支援中の自衛戦闘も想定されたことから、赤外線誘導の空対空ミサイルも搭載された。当初はAIM-9Bや国産の69式空対空誘導弾(AAM-1)などが主流だったが、後にAIM-9EやAIM-9Pが使用されるようになり、最終的にはAIM-9Lが搭載された。翼端の専用のステーションのほか、主翼外舷の2ヶ所のハードポイントを含めて、最大で4発を搭載できた[14]。
- ロケット弾
- ロケット弾ポッドは、ハイドラ70ロケット弾×19発を収めるJ/LAU-3や、127ミリ×4発のRL-4、70ミリ×7発のRL-7のいずれかを翼下に4基搭載できた[14]。
なお、代表的なミッション・プロファイルと、その時の戦闘行動半径は下記の通りであった[10]。
- 要撃戦闘 - AAM×2、20mm弾200発、増槽なし…150海里(約280 km)[10]
- 対地支援 - 750ポンド爆弾×2、20mm弾750発、増槽×2…300海里(約560 km)[10]
- 対艦攻撃 - ASM×2、増槽×1[注 8]…300海里(約560 km)
諸元・性能
出典: Taylor 1982, pp. 152–153; 赤塚 2006
諸元
- 乗員: 1名
- 全長: 17.85 m (ピトー管含む)
- 全高: 4.45 m
- 翼幅: 7.88 m (翼端ランチャー含まず)
- 翼面積: 21.17 m2 (主翼)
- 空虚重量: 6,358 kg (14,017 lbs)
- 最大離陸重量: 13,674 kg (30,146 lbs)
- 動力: IHI TF40-IHI-801A アフターバーナー付ターボファン
- 内部燃料搭載量:1,028 gal (3,891 L)
性能
- 最大速度: マッハ1.6 (650ノット) ※高度36,000 ft
- 失速速度: 217 km/h (117ノット)
- フェリー飛行時航続距離: 2,600 km (1,400海里) ※増槽3個搭載
- 実用上昇限度: 15,240 m (50,000 ft)
- 離陸滑走距離: 853 m (2,800 ft; 対地訓練形態)
- 着陸滑走距離: 549 m (1,800 ft; 空対空訓練形態)
武装
- 固定武装: JM61A1 20mmバルカン砲×1門(750発)[16]
- ハードポイント: 7ヶ所(翼端含む)最大搭載量 2,720 kg
- 空対空ミサイル:AIM-9 サイドワインダー
- 空対艦ミサイル:80式空対艦誘導弾(ASM-1)
- 爆弾:Mk.82 500ポンド爆弾, JM117 750ポンド爆弾, CBU-87/B クラスター爆弾
- ロケット弾:70mm・127mmロケット弾用ポッド
運用史
調達
第4次防衛力整備計画(4次防)の原案では4個飛行隊126機を予定していたが、1972年8月の修正で3個飛行隊分96機に圧縮され、更に最終段階で1個飛行隊分は次期防に持ち越しとされたため、1972年10月の閣議決定では68機の購入となった。また当初は昭和48年度でのスタートを予定していた量産第1次計画は、オイルショックを受けた自主削減で先送りとなり、やっと昭和50年度より着手された。量産1号機 (#70-8201) は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入され、三沢基地の第3飛行隊に配備された。1979年3月30日からはアラート任務を開始し、4月4日には初のスクランブルを実施している[4]。
続いて1979年6月から1980年2月にかけて第8飛行隊、1980年3月から1981年2月にかけて築城基地の第6飛行隊が機種転換を完了したが、4個目の飛行隊は財務当局の反対で実現しなかった。昭和54年度以降も予備機の生産が継続されたのち、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した[4][注 9]。
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第3飛行隊所属機(1984年)
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航空自衛隊創立50周年記念塗装機(235号機、嘉手納基地で撮影)
退役
最初期計画では平成2年度より最初の飛行隊の更新が必要と見積もられていたが、これでは次期支援戦闘機 (FS-X) の国産化に間に合わないことから、再検討が実施された。この結果、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、オイルショックによる年間飛行時間の短縮の影響により、更新は平成9年度からでよいことになり、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。これによって開発されたのがF-2であり、1995年10月7日に試作1号機が初飛行した[4]。
しかしF-2の開発難航によって部隊配備は2年以上遅延しており、本機の老朽化に伴って機材のやりくりがつかなくなっていったため、F-1飛行隊のうち第8飛行隊には代替機としてF-4EJ改が割り当てられることになり、1997年3月に機種改変した。その後、2000年9月よりF-2量産機の引き渡しが開始され、逐次納入されていった。2001年3月14日には第3飛行隊のF-1がラストフライトを実施、第6飛行隊にも2004年8月よりF-2の配備が開始され、2005年10月頃にはF-1よりもF-2のほうが多くなった。そして2006年3月9日、6機によるラストフライトが行われたが、このとき編隊の先頭を務めた飛行隊長髙部2佐は、この飛行によって、F-1単一機種としては最大の3,733飛行時間を達成した。そして3月18日にF-1任務完了式が行われた[4]。
- 退役記念塗装が施された267号機
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右舷前方からの写真
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左舷後方からの写真。垂直尾翼に「F-1 Final」の文字が読める
事故
1998年(平成10年)8月25日夜、第3航空団のF-1支援戦闘機が岩手県沖を3機編隊で訓練中、編隊長のA二等空尉(当時29歳)とB二等空尉(当時29歳)の2機が墜落した[23]。A二尉は飛行時間2000時間超、B二尉も1500時間超の中堅パイロットであり、B二尉は築城基地の第8航空団所属で訓練に参加していた[23]。僚機は三沢基地に帰還後「火の玉が見えた」と報告した[23]。
その後遺体が回収され、A・B両名とも1階級特別昇任し、8月29日に葬儀が行われた[24]。同年9月2日より訓練が再開され9月13日の三沢基地航空祭も実施されたが、10月上旬にF-4EJ戦闘機が墜落する事故が発生したため、三沢市長が抗議する事態となった[25]。さらに翌年1月には米軍のF-16が墜落事故を起こしている。
登場作品
脚注
注釈
- ^ T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された。
- ^ 内部燃料搭載量の搭載量は3,891リットルとされていた[10]。これに対し、本機とよく対比されるジャギュアでは4,200リットルであった[15]。
- ^ ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーア(Adour)はフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、米国、インド、オマーン、エクアドル、ナイジェリアなどに輸出されている。
- ^ GE1についての日本側の危惧は的中し、結局、それ自体は実用化されなかった。ただし技術的には、後のYJ101、そしてF404の源流となった[13]。
- ^ 留意すべきは大気密度の濃い低空を侵攻しても省燃費で、水平線の際からASM-1で対艦攻撃するという本機の意義は、洋上飛行のため双発が望ましい(エンジン1基あたりの推力が小さい)という点も含め、アドーアが無ければ成り立たなかったことである。
- ^ 本機があくまで支援戦闘機であることを鑑みれば、ACMにおける推力の不満は訓練に限っても(FS部隊の目的は敵機の撃墜ではなく突破、米空軍のF-16の任務は阻止であるため)ピント外れであり、アドーアの改良型…推力が大幅に向上したMk-106が登場したのは本機が退役する直前の1999年であること、80年代初頭に登場したMk-104の改良点が攻撃直前の低空での高亜音速巡航を可能にするアフターバーナー推力の増加で、その必要性が生まれた理由が(ASMのようなスタンドオフ兵装ではなく)目標至近で投下するWE177A核爆弾による核攻撃任務のためであること(そしてF-1より大きな搭載量、最大離陸重量を支える必要があること)を鑑みれば、しばしば指摘されたF-1でのエンジン換装は時系列的に不可能であるか、実効性も必要性も低いものでしかなかった。
- ^ 500ポンド爆弾の場合、胴体下のハードポイントには4発用のFER、主翼下のハードポイントには2発用のDERといったアダプターを介して搭載することができた[14]。
- ^ 赤塚 2006では増槽2本搭載とされているが、実際には、ASMを翼下に各1発ずつ搭載し、翼端に自衛用のAAMを1発ずつ、胴体下に落下タンクを懸吊して出撃することが想定されていた[7]。
- ^ 戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、大量生産による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。
出典
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関連項目
- 類似する航空機
固有名詞の分類
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