カウディーリョの時代とは? わかりやすく解説

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カウディーリョの時代(1824年-1884年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:09 UTC 版)

ペルーの歴史」の記事における「カウディーリョの時代(1824年-1884年)」の解説

独立後のペルー政治はやはり多くラテンアメリカ諸国同じくカウディーリョ地方依拠する軍事指導者)の政治となり、1846年まで各地カウディーリョ間の私闘続いたその中でも特に有力だったのはアヤクーチョ戦いでスクレと共に戦ったホセ・デ・ラ・マール、アグスティン・ガマーラ、アンドレス・デ・サンタ・クルス三人であった一方ボリビア共和国ボリーバル共和国)の事実上初代大統領ベネズエラ人ボリーバル派のスクレだった。ラ・マールとガマーラは強硬なボリーバル派であり、大コロンビアボリビアスクレ政権敵対し周辺国との戦争明け暮れた1828年ラ・マール政権グアヤキル(現エクアドル最大港湾都市)を要求してコロンビア共和国宣戦布告したが、ラ・マール大統領はポルテテ・デ・タルキの戦いでボリビアからコロンビア帰国したスクレ打ち破られた後、ラ・マールはガマーラによって追放された。他方ボリビアでは、1827年スクレ失脚してから、サンタ・クルス実権握っていた。この後1829年ペルーの大統領になったガマーラとボリビアの大統領になったサンタ・クルスは、互いにペルーボリビア合邦構想抱き、自らがその領袖となろうとしていた。 ペルー国内政変失脚したガマーラはボリビア攻略計画したが、先手取ったボリビアアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領が、ボリビア主導でのペルー・ボリビア連合構想基づいて1836年ペルーを完全征服し、同1836年10月北部ペルー南部ペルーボリビア三州から成るペルー・ボリビア連合成立宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人独立戦争経緯から反ペルー感情強かったチリ亡命すると、チリ政府アルゼンチン実力者フアン・マヌエル・デ・ロサス力を得て軍を動かしユンガイ戦いでサンタ・クルス破ったため、1839年にこの国家連合崩壊した。 再び独立したペルーではガマーラが大統領就任し1841年ペルー主導でのペルー・ボリビア連合望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビア向かったが、インガビの戦いでボリビア軍によって撃退され、ガマーラ自身戦死した。翌1842年プーノ両国講和条約結ばれ以後両国統一を望む運動なくなった。ガマーラの死後ペルー内乱状態に陥ったが、1845年にかつてアヤクーチョ戦ったラモン・カスティーリャが内乱制して大統領就任すると、この1845年から1867年まで事実上ペルー支配したカスティーリャ時代に、強権によってペルー内政安定迎えた。この時代にはイギリスアメリカ合衆国はじめとする外国資本によって経済開発進み肥料適していた海岸部グアノ海鳥の糞からなる鉱石資源)や、コスタでの綿花サトウキビタラパカでの硝石主要輸出品となってペルー経済支え、特にグアノから生み出された富によってそれまで滞っていた公務員軍隊への給与外債支払い鉄道電信上下水道港湾などインフラストラクチュア整備士官学校の創設海軍の増強盗賊出没した街道治安確立などの諸事業がなされた1851年にはペルー史上初の自由選挙でホセ・ルフィーノ・エチェニケが大統領就任した1852年には民法制定されたなど功績もあったが、エチェニケが汚職事件引き起こしたことがスキャンダルとなったため、1854年にラモン・カスティーリャが蜂起しカスティーリャ同年反乱最中インディオ貢納奴隷制の廃止宣言した。翌1855年ラ・パルマ戦いでカスティーリャ政府軍勝利すると、同年第二次カスティーリャ政権成立したカスティーリャ1860年立法府凌ぐ強力な大統領定められ新憲法制定し、この憲法比較長命な憲法となり、実に1920年まで効力保った他方反乱最中1854年黒人奴隷解放されたことは、ペルー指導層奴隷代わる新たな労働力を必要とさせたため、1849年成立した移民法によってコスタプランテーションで働く労働力として、アイルランド人移民ドイツ人移民中国人移民導入された。苦力クーリー)として導入され中国人の数は1850年から1880年の間に約10万人だと推計されており、黒人替わる新たな奴隷如き劣悪な労働条件労働させられた。しかし、依然として労働力不足していたために、ペルー政府要請受けたアイルランド人のジョゼフ・バーンは、ポリネシアクック諸島などの住民奴隷として捕らえコスタ大農園連行したため、これらの諸島文化大きく衰退することになったまた、インディオ農民対する税はカスティーリャによって廃止されていたが、他方そのこと大土地所有者がインディオ共有地解体して大農園拡大させる作用もたらし農民大衆窮乏変化はなかった。第二次カスティーリャ政権はペルー・アマゾンの開発進めイキートス拠点ゴムキニーネ生産された。 1863年副大統領から昇格したフアン・アントニオ・ペセット政権時代に、ペルー大地主によるバスク人移民扱いペルースペインの間で外交問題となり、1865年海軍大臣ホセ・マヌエル・バルハ率いスペイン太平洋艦隊チンチャ諸島占領した。バレハはチンチャ諸島引き換え300ペソペルー支払うことを求め屈辱的な講和条約要求し、ペセットはこれを飲んだが、この条約国民の怒り招いたためにペセットは失脚し主戦派のマリアーノ・イグナシオ・プラードが大統領就任した。プラードは1866年スペイン宣戦布告しチリエクアドルボリビア同盟を結び、侵攻してきたスペイン軍に対してペルー軍5月2日カヤオ戦いで勝利しスペイン軍撤退し以降ラテンアメリカ主権脅威を及ぼすことはなくなった。スペインペルー独立認めたのは1879年のことであった1868年就任したホセ・バルタ大統領グアノ利権によって鉄道の建設進めた1872年ペルー初の政党だった文民党からマヌエル・パルドが、文民として初め大統領就任したパルド政権下ではグアノ枯渇始まっており、財源の不足からパルド政権アルゼンチン同盟を、ボリビア秘密同盟結んだ上で軍の予算を1/4に減らす大軍縮を行ったが、この措置ペルーにとって命取りとなった1876年に再び大統領就任したマリアーノ・イグナシオ・プラードは難題直面した。前政権大軍縮やグアノ経済悪化の中で、既に財政破綻迫っていたのである。さらに、それまでチリボリビア両国間ではアントファガスタ硝石鉱山巡って対立生じていたが、ペルーボリビアとの秘密同盟結んでいたために、1879年4月3日同盟国ボリビアと共にチリ宣戦布告され、太平洋戦争勃発したペルー海軍5月21日イキケの海戦新鋭艦のインデペンデンシア失いながらもミゲル・グラウ提督ワスカル駆って神出鬼没海上ゲリラ戦繰り広げたが、10月8日アンガモスの海戦グラウ戦死しワスカル拿捕されるとペルー制海権失い大勢決した戦線陸上移行したが、制海権失った状態でのアタカマの砂漠地帯補給は叶わず、1880年5月にはタクナ陥落しボリビア戦線から離脱した。続くアリカ戦い英語版)でもフランシスコ・ボログネシ将軍率いられペルー兵は勇戦したもの敗北し、ボログネシ自身戦死した後、1880年中にアタカマの係争地チリ軍によって占領された。1881年1月25,000人の兵力リマ近郊上陸したチリ軍は、ミラフローレス戦いでペルー軍破り首都リマ陥落したリマ陥落ペルー政治的に分裂して各地に3人の大統領生まれたが、混乱制してカハマルカ権力を掌握したミゲル・デ・イグレシアス大統領によって1883年10月23日アンコン条約結ばれペルーチリタラパカ割譲しアリカタクナチリ管理下にした後住投票帰属決定することとなった戦争はペルー・ボリビア同盟完敗終わった文化面ではこの頃フランスの文化導入され1880年代からはリマ市もフランス風改造された。一方庶民世界ではレオン・アングラン、ヨハン・モリッツ・ルゲンダス、パンチョ・フィエロなどの画家や、『ペルー伝説集』を残した文学者リカルド・パルマなどが活躍し、この時期リマでは支配階級から距離を置いた大衆文化としてのクリオーリョ文化育った

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