『種の起源』への反響とは? わかりやすく解説

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『種の起源』への反響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 16:56 UTC 版)

チャールズ・ダーウィン」の記事における「『種の起源』への反響」の解説

この発表対す関心当初ほとんど無かった8月学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度取り上げられたため手紙レビューいくつかあったが、学会長は翌年演説革命的な発見が何もなかったと述べたダブリン大学のサミュエル・ホートーン教授は「彼らが新しいと考えた全て誤りだった。正しいのは古い考え方だった」と述べたダーウィン13ヶ月間、「巨大な本」の要約取り組んだ不健康に苦しんだ科学上の友人たちは彼を励ましたライエルジョン・マレー社から出版できるよう手配した1859年11月22日発売された『種の起源』は予想外人気博した初版1250冊以上の申し込みがあった。 もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物進化に関する著作はいくつ発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造自然史痕跡』よりも少な論争大きな歓迎とともに国際的な関心引いた病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィン家族熱心に科学的な反応報道コメントレビュー記事風刺漫画チェックし世界中同僚意見交換したダーウィン人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初批評は『痕跡』の「サル由来する人間」の信条真似して書かれたと主張した初期の好ましい反応のひとつであるハクスリー書評リチャード・オーウェン痛打し、以後オーウェンダーウィン攻撃する側に加わったオーウェン反発学問的な嫉妬動機だったとも言われ私的な交流途絶えることになったケンブリッジ大学恩師セジウィッグも道徳破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた進化論構築協力していたライエルはすぐには態度明らかにせず、最終的に理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィン落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブル反対者一人で、ダーウィンとは手紙意見交換しあった意見合致には至らなかった。 ダーウィンはあまりの反発激しさに「この理論受け入れられるのには種の進化同じだけの時間かかりそうだ」と述べた。しかしフッカートマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者支援受けてこの学説次第社会における認知影響力拡大した博物学者ベイツミュラー支持者名を連ね進化論補強する様々な資料提供したアメリカではハーバード大学著名な植物学者だったエイサ・グレイが、ドイツではエルンスト・ヘッケル進化論普及努めた英国国教会反応様々だった。恩師セジウィッグとヘンズローはこの考え退けたが、自由主義的な聖職者自然選択を神のデザイン道具解釈した牧師博物学者チャールズ・キングズレーは「まったく立派な有神論概念」と見なした。1860年出版された7人の英国国教会自由主義神学者による『エッセイ・アンド・レビュー』は創造説痛烈に批判していたため、英国国教会指導部によって異端攻撃された。しかし、この本はダーウィンへの批判注意をそらすことになったその中でベーデン・パウエル奇跡が神の法則破り、彼らの信念無神論的だと主張し同時にダーウィン氏のすばらし著作は自然の自己進化の力の壮大な原理[を支持する]」と称賛したエイサ・グレイ目的論についてダーウィン議論し彼の有神論進化自然選択自然神学相反しないというパンフレット輸入され配布された。 1860年にはオックスフォード大学で、ハクスリーフッカー支持者ウィルバーフォース大司教反対者による討論会が行われた。一般に知られるように、大司教一方的に論破されたわけではなくウィルバーフォースは「種の変化反対はしないが、ダーウィン説明には反対である」と述べた。また生物学知識がなかったため聖書感情にのみ基づいて論じ議論はかみ合わなかった)双方勝利した主張した聴衆立派に弁じた両者盛大な拍手送った。しかしこの討論進化論知名度押し上げることになった1877年ケンブリッジ大学ダーウィン名誉博士号贈ったウォレス1858年送った最初の手紙では(初めウォレスダーウィン手紙送ったのは1856年と言われる)、種は変種と同じ原理生まれるのではないか、そして地理気候要因大きいのではないか、という物だった(当時創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種変種品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではマルサスの『人口論』が反映されておりダーウィン自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃ダーウィン生態的地位適応放散にまで考察及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事自分遠く及ばない」と述べている。 ダーウィン親し友人グレイフッカーハクスリーライエルでさえ様々な留保表明したが、それでも若い次世代博物学者たちと供に常にダーウィン支持し続けたハクスリー宗教と科学分離主張する一方でグレイライエル和解望んだハクスリー教育における聖職者権威に対して好戦的に論陣張り科学支配する聖職者貴族的なアマチュア優位転覆しよう試みた。この試みではオーウェンハクスリーと同じ側にいたが、オーウェン誤ったヒト類人猿の脳の解剖学的差異に基づきハクスリーを「ヒト類人猿起源」を主張した告発した。もっともハクスリーはちょうどそれを主張していた。2年にわたるハクスリーキャンペーンオーウェンと「保守派」を追放することに劇的に成功したダーウィン自然選択発見ウォレス断りなく共同発表としたことを、手柄横取り受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為満足しダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見異にしていたにもかかわらずウォレスダーウィン友好的な関係は生涯続いた。しかし当事者以外でこの行為誤解した者もおり、手柄横取りしたという批判避けることはできず、この形の批判は現在でも残存している。ダーウィン後年、生活に困窮していたウォレス助けるため、グラッドストン首相に年金下付働きかけるなど支援行っている。 『種の起源』は多く言語翻訳された。そしてハクスリー講義群がった様々な分野次世代研究者関心引きつけ、彼らの主要な科学テキストとなったダーウィンの理論当時様々な運動取り入れられ大衆文化カギとなったダーウィニズムという語は非常に広範な進化思想を含む用語となった1863年ライエルの『Geological Evidences of the Antiquity of Man』は進化批判的ダーウィン落胆させたが、先史時代への大衆の関心引いた。数週間後、ハクスリーの『自然における人間位置』は解剖学的に人類類人猿であることを示した。ヘンリー・ベイツは『アマゾン河博物学者』で自然選択経験的な証拠提供した友人たち活動1864年11月3日ダーウィンコプリ・メダル受賞もたらしたその日ハクスリーは「科学純粋さと自由、宗教的ドグマからの解放」を目指すXクラブ最初会合開いた

※この「『種の起源』への反響」の解説は、「チャールズ・ダーウィン」の解説の一部です。
「『種の起源』への反響」を含む「チャールズ・ダーウィン」の記事については、「チャールズ・ダーウィン」の概要を参照ください。

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