『積みわら』からの連作(1890年代)
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「クロード・モネ」の記事における「『積みわら』からの連作(1890年代)」の解説
1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。同じモチーフで複数の絵を描くという手法は、中近世の月暦画やミレーの四季連作のほか、モネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると考えられている。 モネは1890年、しばらくの間旅行を諦め、借地だったジヴェルニーの家を購入し、自宅の周りの積みわらを描くことに集中した。1880年代末にも何点かの積みわらを描いていたが、1890年後半から1891年にかけては、『積みわら』の本格的な連作25点を制作した。モネは、1890年10月、友人ジェフロワに、次のように書いている。 積みわらのさまざまな光の連作に夢中なのですが、近頃は日が早く沈むので、追いつくことができません。しかし描き進めるに従って、私が求めているもの――「瞬間性」、とりわけ物を取り囲む大気と、至るところに輝く均一な光――を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。 『積みわら』は、一般的にモネの最初の連作とされており、ブッソ・ヴァラドン商会が1891年にモネから1枚3,000フランで3点購入した。カミーユ・ピサロは、息子リュシアン・ピサロへの手紙の中で「みんなモネの作品しか欲しがらない。……みんな『日没の積みわら』を欲しがる。……彼が描いたものは全部、4,000フランから6,000フランでアメリカに売られていく」と記している。ピサロは、モネの連作を商業主義によるものと見て、批判的であった。デュラン=リュエル画廊でも、同年5月、『積みわら』15点が展示され、大きな反響を呼んだ。 『積みわら、夏の終わり』1891年。油彩、キャンバス、60.5 × 100.8 cm。オルセー美術館(W1266)。 『積みわら、夏の終わり』1890 - 91年。油彩、キャンバス、60 × 100.5 cm。シカゴ美術館(W1269)。 『積みわら、雪と日光の効果』1891年。油彩、キャンバス、65.4 × 92.1 cm。メトロポリタン美術館(W1279)。 『積みわら、日没』1891年。油彩、キャンバス、73.3 × 92.7 cm。ボストン美術館(W1289)。 『積みわら、日没、雪の効果』1890 - 91年。シカゴ美術館(W1278)。 『積みわら』に続き、1891年春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、『ポプラ並木(英語版)』の連作23点を制作した。構図は、7本のポプラと、3本のポプラのものに限定されており、連作を並べての展示を意図したものと考えられる。ブッソ・ヴァラドン商会のモーリス・ジョワイアンが1892年2月に数点を購入してモンマルトル大通り(英語版)で展示し、同年3月にはデュラン=リュエルが15点ほどを展示して、成功を収めた。 1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネはアリスと結婚した。 『エプト河岸のポプラ並木』1891年。油彩、キャンバス、100.3 × 65.2 cm。フィラデルフィア美術館(W1298)。 『ジヴェルニーのポプラ並木:曇り空』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。MOA美術館(W1291)。 『陽を浴びるポプラ並木』1891年。油彩、キャンバス、93 × 73.5 cm。国立西洋美術館(東京)(W1305)。 1892年と1893年、ルーアン大聖堂を訪れ、西側正面の建物の中にイーゼルを置き、『ルーアン大聖堂』の連作30点を制作した。1892年4月、アリスに宛てて、次のように書いている。 毎日、まだ見ることができなかった何かを発見し、付け加えている。実に苦労は多いが、進んでいる。〔……〕僕は疲れ切ってしまった。もうだめだ。〔……〕ある夜、悪夢にうなされた。大聖堂が僕の上に崩れ落ちてきたんだ。青やバラ色や黄色の石が降ってくるのが見えた。 1895年初頭には、ノルウェーのクリスチャニア(現・オスロ)近郊のサンドヴィケン(英語版)村で、コルサース(英語版)山などの雪の風景画を制作した。 モネは、デュラン=リュエルに『大聖堂』1点につき1万5,000フランを要求し、最終的に1万2,000フランで落ち着いた。1895年5月、デュラン=リュエル画廊の「モネ近作展」で『大聖堂』20バージョンが展示され、注目を浴びた。ここでは、ノルウェーの風景画8点も展示された。 1896年と1897年の冬は、プールヴィルとヴァランジュヴィルを再訪し、断崖の上の小さな家を描いた10点ほどの作品を制作した。1898年6月1日、ジョルジュ・プティ画廊で、これらノルマンディーの作品と、ジヴェルニーで制作した『セーヌ川の朝』連作を展示した。なお、1897年、長男のジャンと、アリスの娘ブランシュが結婚した。 モネはジヴェルニーで、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくという日課を守っていた。早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、1898年6月、ジョルジュ・プティ画廊の個展にこれらの作品17点を出品して、成功を収めた。 当時、依然としてアカデミーからの敵視は根強く、1894年に亡くなったギュスターヴ・カイユボットが、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌなどの名品を含むコレクションをフランス政府に遺贈したが、アカデミーの反対に遭い、論争の的となった。アカデミズム絵画の泰斗ジャン=レオン・ジェロームは、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた。しかし、1896年にようやく、モネ作品8点を含め、コレクションの一部が国立のリュクサンブール美術館に収められ、公的な認知が進んだことを示した。 『ルーアン大聖堂、ファサード(日没)』1892 - 94年。油彩、キャンバス。マルモッタン・モネ美術館(W1327)。 『ルーアン大聖堂、日没(灰色とピンクのシンフォニー)』1892 - 94年。油彩、キャンバス、100 × 65 cm。カーディフ国立博物館(W1323)。 『ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光』1894年。油彩、キャンバス、ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)(W1324)。 『コルサース山』1895年。油彩、キャンバス、65 × 100 cm。マルモッタン・モネ美術館。 『ヴァランジュヴィルの税官吏小屋』1897年。サンディエゴ美術館(英語版)。 『ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流(フランス語版)』1897年。油彩、キャンバス、73.2 × 93 cm。オルセー美術館(W1487)。
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