「平成の大合併」について
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当初は杵島郡の合併協議会に参加していたが、新役場建設位置などを巡り破綻。当面は単独町制を維持する、としている。
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「平成の大合併」について
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第一次合併(群馬町・箕郷町・新町・倉渕村) 1997年(平成9年)以来、中核市への移行を目指して周辺市町村との合併を模索してきたが、2003年(平成15年)12月に倉渕村・群馬町・新町・吉井町と任意合併協議会を設置し、合併協議が本格化した。その後、吉井町は法定合併協議会設置案を否決して協議から離脱した。箕郷町では住民投票の結果賛成多数となった事を受けて、群馬町・新町・倉渕村とは別に、高崎市との法定合併協議会を設置した。その後、5市町村は同時合併を目指して合同で協議会を開き、2005年(平成17年)2月8日に合併協定の調印に至った。 2006年(平成18年)1月23日、倉渕村・箕郷町・群馬町・新町の4町村を高崎市に編入し、法定人口(合併市町村の2005年国勢調査人口の合算値)が318,097人となり、中核市への移行要件を満たすことになった。この時点では榛名町が合併慎重派の町長と推進派が多い町議会の対立などで合併協議に加わらなかったため、旧倉渕村は飛地となった。また、旧新町も藤岡市などとの合併協議から離脱し、隣接していないが繋がりの深い高崎市との合併を選択したため、飛地となった。 なお、この合併によって住所表記が以下のように変更された。 旧高崎市はほぼ変更はないが、「高崎市新(あら)町」は新(しん)町地域と重複するため「高崎市あら町」に変更された。 旧群馬町は合併前の大字名の後に「町(まち)」が付いた。例:群馬郡群馬町大字金古→高崎市金古町 旧箕郷町は「箕郷町」、旧倉渕村は「倉渕町」と高崎市の後に付き、その後に合併前の大字名が付いた。例) 群馬郡箕郷町大字柏木沢→高崎市箕郷町柏木沢 例) 群馬郡倉渕村大字三ノ倉→高崎市倉渕町三ノ倉 旧新町は多野郡の部分が「高崎市」に変更された。例) 多野郡新町→高崎市新町 第二次合併(榛名町) 榛名町では、2005年(平成17年)11月に合併推進派の住民が約7900名の署名を集めて慎重派の町長の辞職を請求し、町長はリコール投票前に辞職、これを受けた町長選挙の結果、2005年(平成17年)12月に合併推進派の町長が就任した。一方、慎重派の住民が起こした町議会リコールの住民投票でも「解散反対」が多数を占め、その後2006年(平成18年)2月に高崎市と榛名町は合併協議会を設置した。高崎市と群馬町・新町・箕郷町・倉渕村との合併協定項目を榛名町が追認する形を取ったため、5月8日には合併協定調印にこぎつけ、両市町議会、群馬県議会の議決を経て、7月13日には総務大臣が官報に告示し、2006年(平成18年)10月1日に合併が行われた。この合併により旧倉渕村域の飛地状態が解消され、高崎市の人口は約34万人と史上初めて前橋市の人口を上回り、県内で最も人口を抱える都市となった。同時に広大な市域を抱え、特に面積127.26k㎡、人口密度約35人の倉渕村を編入したことで人口密度は大きく低下し、約800人で前橋市に次いで県内第5位である。また可住地人口密度は約1500人で伊勢崎市に次いで県内第2位である。合併前の旧市の人口は約24万人で前橋市に次いで県内第2位、人口密度は約2200人で県内第1位であった。 なお、この合併によって旧榛名町の住所表記が、合併前の大字名の後に「町(まち)」が付く形に変更された。 例) 群馬郡榛名町大字下室田→高崎市下室田町 但し、大字榛名山地域は、地区住民の総意として榛名湖周辺の次の区域が合併と同時に高崎市榛名湖町に分割された。 字滝ノ平、氷室嶽、天神嶺、相馬嶽、沼ノ原、富士山及び榛名湖の区域 第三次合併(吉井町) 2003年(平成15年)に任意協議会が設置されたが、合併賛成と反対で町は二分し、合併の賛否を問う3度の住民投票が行われ、合併反対が多数を占めた町議会が合併に同意。2008年(平成20年)7月、高崎市と吉井町による合併協議会が設置され、2008年(平成20年)10月16日に高崎市長・吉井町長による合併協議項目の調印を完了させ、2009年(平成21年)1月8日高崎市が、1月13日吉井町がそれぞれ関連議案を可決し、2009年(平成21年)6月1日に合併が実現した。新市の人口は36万6966人、面積は459.36m2(2008年6月1日現在)に及ぶ。しかし、一部の合併反対派住民は合併関連祭典等への参加を拒んでおり、今後はこのしこりを取り除くことが課題となっている。 なお、この合併によって旧吉井町の住所表記が以下のように変更された。 高崎市の後に「吉井町」と付き、その後に合併前の大字名が付いた。例) 多野郡吉井町大字吉井川→高崎市吉井町吉井川 将来合併構想(前橋市・玉村町)高崎市は2002年(平成14年)6月に玉村町に合併を呼びかけたが、2003年(平成15年)12月の任意合併協議会設立に玉村町は参加を見合わせた。2007年(平成19年)にも玉村町の住民署名による直接請求に応じて、高崎市は合併協議会の設置を可決しているが、玉村町では否決している。2008年(平成20年)1月20日に行われた玉村町長選では、高崎市との合併推進派と合併慎重派の一騎討ちとなったが、合併慎重派候補が当選している。 2007年(平成19年)10月に前橋市長から、高崎との合併による政令指定都市実現を構想する旨の発言があったが、歴史的経緯から根深い対立が互いの市にあることもあり、NIRA(総合研究開発機構)の対談シリーズ(第26回;2007年11月19日)において、松浦・高崎市長は「前橋との合併は極めて困難」であると語っている。 松浦高崎市長は、自らのホームページ上で、「高崎市は、高崎都市圏(玉村町・藤岡市・安中市)での広域合併を実現し、太平洋と日本海を結ぶ結節点として、新潟市やさいたま市等の政令指定都市に比肩しうる拠点都市を実現したい」旨を表明している。 「東国市構想」も参照
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「平成の大合併」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 13:55 UTC 版)
21世紀初頭に日本中で行われた平成の大合併は川場村にとっても例外ではなく、当初沼田市に利根郡8町村を加えた枠組での合併が検討された。 一方、2002年1月に村の若手管理職らで構成される研究会が報告で「村単独の存続」「周辺町村との合併」に加え、それまで20年以上交流を続けていた「東京都世田谷区との合併」を選択肢の1つとして提示した。これについて横坂太一村長(当時)は「近いから合併するというではなく、ソフト面での結びつきを考えなければならない」と肯定的な見解を述べ、世田谷区の大場啓二区長(当時)も「合併の申し入れがあれば、財政的な負担も含めて検討する」と応じた。法的には合併は可能であり、県境を接しない飛び地合併の初めてのケースという事で注目を集めたが、現実に村と区とでは160kmも離れている上、群馬県の中に東京都の飛地ができるのは、地域感情や手続き(県議会・都議会の議決および両知事の承認が必要となる)といった面で様々な難しい問題を生じさせかねない事から、実現しなかった。 2005年には利根郡域において、昭和村と片品村を除く5町村が沼田市(編入)とみなかみ町(新設)に再編され、川場村は単独の生き残りを選択する事となった。
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「平成の大合併」について
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「木島平村」の記事における「「平成の大合併」について」の解説
21世紀初頭に日本中で行われた平成の大合併は木島平村にとっても例外ではなく、当初飯山市・野沢温泉村・木島平村の岳北地域3市村による合併が検討された。 合併に際し、飯山市と野沢温泉村が財政事情や域内の民間スキー場(斑尾高原、戸狩温泉等)への影響を考慮し、木島平村に対して同村が90.2%を出資し第三セクター方式で運営する木島平スキー場の民営化を求めた。この件に関し木島平村は「スキー場は地域振興の柱」とし、将来的に民営化を目指すものの合併時は第3セクター方式で存続と反発し研究会等でも議論は平行線を辿った。 これに加え、村民に対し行ったアンケート(村民の約9割に当たる4,222人が回答)の結果、合併反対が約6割近くに上った事から、柳沢万寿雄村長(当時)が2004年3月11日の村議会において村単独での生き残りを決議し、3月31日付で合併問題研究会から離脱。会は解散となった。 2012年7月14日、15日の2日間にわたって第一回全国村長サミットが木島平村と財団法人自治総合センターの主催で行われた。
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「平成の大合併」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 05:27 UTC 版)
平成の大合併では最初南アルプス市との合併が検討されたが、南アルプス市側が時期尚早であるとの見解から破綻。かわりに西八代郡市川大門町、六郷町や南巨摩郡鰍沢町との合併が検討されたが、2004年に増穂町が行なったアンケート結果において合併反対が賛成を上回ったため協議を断念し、一時は単独町制を視野に入れていた。 しかし2007年(平成19年)の町長選挙で合併推進を掲げた町長が当選したことにより鰍沢町との合併協議が再開され、2008年(平成20年)9月に協議会が設置された(市川大門町、六郷町、三珠町が合併して誕生した市川三郷町とも合併し市制執行を目指していたが、市川三郷町側が慎重な姿勢を見せたため断念)。その後、合併反対派による町長に対してのリコール運動も展開されたものの、2009年(平成21年)6月に調印式が行なわれ、2010年(平成22年)3月8日に鰍沢町と対等合併することが決定した。 新しい町の名前は富士川町(ふじかわちょう)となる。なお、静岡県に同じ名前の町が存在したが、2008年(平成20年)11月に富士市と合併したため、重複はしない。 増穂町鰍沢町合併協議会
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