飛び地合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/02 02:07 UTC 版)
平成の大合併において、大澤は当初、桐生広域での大同合併を望みその方向で話が進んでいた。これに対しては旧薮塚本町(現太田市)の小川喜一町長などが賛同したが、笠懸町、大間々町が反発する。結局、大澤は広域合併を断念し、近隣の太田市との中核市構想を提案。太田市もそれに賛同し、東毛中核市の実現に向けて動き始める。しかし、難しい調整のうちでこれも瓦解。結局、新里村・黒保根村との飛び地合併となった。 笠懸町・大間々町が桐生市との合併に反発した理由は、大澤と地元二大保守勢力となっている笹川尭との対立がその根底にある。大澤は赤字を理由に桐生競艇の廃止を主張。桐生競艇の施設会社である関東開発は、笹川一族の会社である。 2007年の市長選挙においては飛び地合併の是非が争点となった。「競艇のない綺麗な桐生の財布を、汚れたみどりの財布と一緒にすべきではない」と主張したが、飛び地合併を嫌う産業界の支持を失い、次点で敗北した。なお、「競艇のない綺麗な桐生の財布」としているが、桐生市は競艇事業により総額1,240億円の自治体収入を得ている。
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