飛び地の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:02 UTC 版)
「インド・バングラデシュ国境の飛地群」の記事における「飛び地の形成」の解説
17世紀頃、この一帯を支配していたクーチ・ビハール王国と、インド東部へと勢力を拡大しつつあったムガル帝国との間で領土の奪い合いが発生した。ムガル帝国はクーチ・ビハール王国の領土の一部を占領したものの、王国に帰順する地方領主は占領地を譲らず居座りつづけた。その後、ムガル帝国側に属していた兵士達がクーチ・ビハール王国側の領土の一部を占拠し、ムガル帝国に帰順した。1713年、両国に講和条約が締結されたが、それぞれの国境に関しては現状が維持された。こうして生まれた複雑な境界線が、クーチ・ビハールの国境線の起源となった。 インドがイギリスによって征服されイギリス領インド帝国となった時、これら一帯はイギリス直轄領の東ベンガル州であるかクーチ・ビハール藩王国領であるかという違いしかなかったため、往来することに特に差し支えはなかった。しかし、1947年にイギリスからインドとパキスタンが独立した際、 ヒンドゥー教徒の多いクーチ・ビハール藩王国領はインドに、イスラーム教徒の多かった東ベンガル州は東パキスタンとしてパキスタンの一部に属することとなったため、かつての境界線が国境線に引き継がれ、多数の飛び地が生み出されることとなった。 その後、言語や民族も異なり、政治の中枢も西パキスタン側に握られていた東パキスタンは、インドの支援を得て1971年にバングラデシュ独立戦争を起こし、バングラデシュとして独立を果たした。クーチ・ビハール一帯の東パキスタン領も、飛び地のままバングラデシュ領となった。
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