「平和球場」への改称と老朽化
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「横浜公園平和野球場」の記事における「「平和球場」への改称と老朽化」の解説
1952年に連合軍の接収解除に伴い横浜市に返還され、1955年に「横浜公園平和野球場」と再度改称される。しかし、市民の間には正式名称よりも略称である「平和球場」という呼び方のほうが定着した。本稿でも以下は平和球場の略称を用いる。 返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかった(プロ野球の最終開催は1967年10月9日に行われたサンケイ・アトムズ対中日ドラゴンズ戦であり、この間28年で65試合の公式戦が行われた)ものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球では多く使用され、ボクシングの興行にも使用されたこともある。しかし築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年3月には躯体のコンクリートが劣化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が使用禁止となった。これによってもともと15,000人程度であった観客収容数が半減してアマチュア野球の大会にも使用できなくなり、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。 一方、この頃の大洋球団は巨人戦以外では全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でもより知名度が高く人口も多い横浜市へ本拠地を移転する構想を持っていた。しかし、老朽化で倒壊の危険性があり10,000人の収容すら出来なくなった平和球場はプロ野球の本拠地球場としては到底使用できない状況であった。そこで大洋球団は1972年11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得て覚書を取り交わした。
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