「平和決議」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
戦争を支持した社民党多数派も1915年春以降の戦争目的論争においては保守・右翼政党と主張を異にした。保守・右翼政党は戦勝の結果を確保して占領地を併合することによって達成される「勝利の平和」が戦争目的であると主張したのに対して、社民党は領土併合に反対し、無併合無賠償で敵国民と講和する「和解の平和」が戦争目的であると主張した。 社民党は再び売国奴扱いされたが、戦況が泥沼化するとともに「勝利の平和」論は疑問視せざるを得なくなり、「和解の平和」論が有利になっていった。中央党(社民党に次ぐ第二党)のマティアス・エルツベルガーが「勝利の平和」から「和解の平和」に転じた。エルツベルガーの主導の下、1917年7月に社民党と中央党と進歩人民党(FVP)の三党は共同して強制的合併を伴わない和平案「平和決議(ドイツ語版)」を帝国議会で採択させた。ただ当初目指された無賠償無併合の原則は国民自由党などブルジョワ政党の反発が根強かったために盛り込まれなかった。また宰相ゲオルク・ミヒャエリスが「私の解釈する」決議の趣旨に努力するという限定を付けたため、その影響力はほとんど無かった。
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