江沢民 来歴

江沢民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 14:20 UTC 版)

来歴

生い立ち

1926年8月17日、江蘇省江都県田家巷に誕生する。祖父の江石渓は安徽省徽州府婺源県の出身。本貫は安徽省寧国府旌徳県。江沢民の実父の江世俊(冠千)は、日本軍占領下の江蘇省で日本特務機関ジェスフィールド76号に協力をしていたとされ[2]、日中戦争時代の日本の傀儡政権である汪兆銘政府官吏だったとみられるが[3][4]、中国当局はこれを否定する[5]

叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年日中戦争時に地元匪賊に殺害された[6]。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父の江石渓からみて第6子にあたる叔父の江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠し、自らの「紅い血筋」を創りあげるためと考えられている[3][7]

1943年に揚州中学を卒業した後、南京中央大学に入学する[2]

日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業したために学歴上は上海交通大学卒業となり、江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。

テクノクラート

上海交通大学卒業後、上海市で益民食品第一工場や上海市石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年に第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任した。1962年に上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年に第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。

1970年北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。1971年にルーマニアチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国に滞在する。帰国後、第一機械工業部外事局長に就任。1980年8月、国家輸出入管理委員会副主任(次官)兼秘書長となり、翌月には国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長も兼務して、貿易・外国投資に関する業務を担当した。

1982年5月、新設された電子工業部の第一副部長(副大臣級)に任命される。同年9月、第12回党大会において中央委員に選出。1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任する。

上海市長・党委書記

1985年、上海市の実力者であり、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出。1987年11月、第13期党中央委員会第1回全体会議(第13期1中全会)において中央政治局委員兼上海市党委員会書記に昇進する。翌月に上海で発生した学生の民主化要求運動に対しては、学生と直接対話し説得した。

党総書記・最高指導者

1989年4月、胡耀邦(1987年に保守派により党総書記を解任された。)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定、共産党の機関紙である『人民日報』は4月26日付社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を発表した。当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であったが[8]、江はこの社説にいち早く対応し、胡耀邦追悼の座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分とした。この江の行動が陳雲李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声が高まっていった[9]。6月4日、第二次天安門事件が発生。その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記中央政治局常務委員に抜擢された。

さらに同年11月の第13期5中全会において、鄧小平から党中央軍事委員会主席の地位を継承し、翌1990年4月の第7期全人代第3回会議において国家中央軍事委員会主席に就任する[10]。中華人民共和国は中国共産党を中心とするヘゲモニー政党制であり、執政党(指導政党)である中国共産党が国家機構を領導(上下関係を前提とした指導)し、その権力は党の軍隊である中国人民解放軍に担保されている。そのため江沢民以前は、国家主席や総書記ですら就任する人物によってはソビエト連邦最高会議幹部会議長のように半ば名誉職と化していた一方で、党中央軍事委員会主席の鄧小平が最高実力者であるなど、地位と実権が必ずしも一致しなかった[注釈 1]。しかし、江沢民が1993年3月に国家主席に就任して以来最高指導者が総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化するようになっている。

総書記就任後は鄧小平の後継者として改革開放政策を概ね継承し、共産党の独裁体制を維持しつつ経済発展を推進した。1992年10月の第14回党大会で自らを中心とする指導体制を確立し、最高指導者としての地位を確実なものとした江沢民は、同大会において「社会主義市場経済」の導入を決定、中国を事実上資本主義国化させていった(国家資本主義)。2001年11月には中国の世界貿易機関への加盟を実現し、外資の導入と世界経済のグローバリゼーション化の動きに適応した輸出の強化で「世界の工場」とまで呼ばれる世界最大の製造業大国[11][12][13]へと中国を変貌させる基礎を築く。その結果、総書記就任直後の1990年の中華人民共和国のGDP(国内総生産)が3888億ドルだったのに対し、2000年のGDPが1兆71億ドルになるなど、1990年から2004年にかけて平均約10%近くの世界最高の経済成長率を記録して中国の高度経済成長は進展した。共産党の執行部は自らと同じエンジニア出身者を中心とし、中央指導部[14]から地方の省長・市長[15]までエンジニア出身者が多く占める脱イデオロギー的なテクノクラシー体制を確立した。また、中国には「強人」(ストロングマン[16][17][18])による開発独裁的な権威主義体制が必要と主張する「新権威主義[16][19][20]と呼ばれる一派の論客であった王滬寧ブレーンに抜擢した。1997年7月には香港1999年12月には澳門(マカオ)の中国への返還も実現させ、列強植民地化によって長らく分裂してきた大陸を事実上初めて統一した。現代中国史の研究者である天児慧は江沢民を「大国化する中国の建設に貢献した」と評する[21]

江沢民の任期から中国本土は大国意識を剥き出しにした外交政策が目立つようになり、台湾李登輝総統は当初国家統一綱領を掲げて海峡交流基金会の設置や対中直接投資の解禁など対中穏健路線を打ち出して江沢民も腹心の曽慶紅汪道涵らを通じて接触するも、1995年一つの中国原則で妥協しない江沢民側の提案(江八点)に対して李登輝側が武力行使放棄などを訴えたこと(李六条李六点)で決裂し、1996年1996年中華民国総統選挙で台湾の民主化を警戒して台湾海峡にミサイルを撃ち込んでアメリカ軍の緊急展開を招くなど「文攻武嚇」(李登輝を批判し、武力を以て威嚇する路線[22])で情勢を緊迫させた。その一方で台湾が康定級フリゲートを購入しようとした際はフランス軍需産業と当時の台湾の国民党政権から不正な献金を受けて黙認したと後の台湾の陳水扁総統はその汚職体質を指摘している[23]。なお、陳自身も江の息子である江綿恒中国語版とその共同事業者である台湾の大富豪王永慶の長男の王文洋から資金援助されていたと元立法委員秦慧珠は主張している[24]。他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みでジャック・シラク大統領のフランスとともに核実験を強行し、世界中から非難された。1999年国慶節では15年ぶりに軍事パレードを挙行し、軍事力を誇示した。また、江が推進した経済発展は、国民の貧富の格差や都市と地方農村の地域格差といった格差社会、汚職の蔓延、そして環境破壊による公害などの負の遺産も残した。また、1999年には法輪功集団による北京中南海陳情事件で、法輪功にメンツを潰されたと感じ、以来、「法輪功を皆殺しにする」との方針で、残酷な弾圧を開始した。

このような中で、江は2002年11月、自身の任期で最後となる第16回党大会を主宰し、自ら提唱した「三つの代表」理論(中国共産党は先進的生産力・先進的文化・最も広範な人民の利益を代表する)を党の指導思想として党規約に追加した。「三つの代表」理論を掲げて私営企業主へも門戸を開いた中国共産党は、この党大会より階級政党から国民政党への転換を始めた[25]。しかし、「三つの代表」理論については保守派から批判が出され[注釈 2]、「江は『三つの代表』理論を党規約化することで自身を毛沢東・鄧小平と同格に位置づけようとしている」と江に反発する意見も強かった。ともあれ、「三つの代表」理論を党の指導思想とした江沢民は、この党大会で総書記・政治局常務委員を退任し、2003年3月、第10期全国人民代表大会第1回会議で国家主席も退任した。その後、2004年3月の第10期全人代第2回会議において憲法が改正された際に、「三つの代表」理論は「マルクス・レーニン主義」・「毛沢東思想」・「鄧小平理論」とともに国家理念として憲法前文に追加された。

江は総書記在任中、上海市長・党委書記時代の部下を次々と中央に引き上げ、枢要な地位に就けて「上海閥」を形成し、その総帥として政界に君臨した。総書記退任後も党中央軍事委員会主席に留任した江は、党の最高指導部である政治局常務委員の過半数を自派閥で固め、曽慶紅らを通じて後継の胡錦濤指導部に影響力を発揮していた。しかし、2006年に江の地盤である上海市の幹部(党委書記の陳良宇など)が汚職で根こそぎ摘発され、「上海閥」は大打撃を受けた。その結果、江沢民派の官僚はかなり減少し、胡錦濤が権力の掌握を確実なものとしていった。

指名手配

欧米諸国では人権問題の観点から江沢民の政策を批判する者もいる。江沢民指導部は反政府活動を行う法輪功弾圧や、中国国内で「臓器狩り」と呼ばれる臓器売買に対して、アルゼンチンオランダスペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがあった[26][27][28]

2009年12月17日、アルゼンチンの裁判所は江沢民と最高指導部の元高官・羅幹を、集団虐殺罪と拷問の罪で逮捕状を出した[29]

2013年11月19日、スペインの全国管区裁判所は1980年代から1990年代にかけて行われたとされるチベット人への「集団殺害」容疑で江沢民や李鵬ら5人に逮捕状を出したことを発表[30]。中国政府はこれに強く反発した[31]。その後スペインは国内法を改正し、それに伴い訴追は却下された[32]

引退後

2004年9月に党中央軍事委員会主席を、2005年3月に国家軍事委員会主席を退いて一党員となったが、2007年11月の第17回党大会に出席した際にその席次が党総書記の胡錦濤に次ぐ第2位であるなど、依然として「党と国家の指導者」として遇されている。これは1990年代に鄧小平や陳雲らが受けた待遇に近い。また、2008年の旧正月には上海市党委書記と市長を伴って公式の場に現れ、健在振りを誇示した。北京オリンピックの開会式では胡錦涛夫妻の左隣に並んで出席した[33]

2010年5月1日より上海万博が開催された。地元での万博開催は江沢民にとっても悲願であったが、4月30日に挙行された開会式には江沢民派の上海市長韓正が出席し、江の姿はなかった。このことが健康不安説や、上海閥の領袖として長きに渡り中国政界に君臨していたが、遂に胡錦濤派(共青団派)に完全に権力を握られたなど、様々な憶測を呼んだ[34]。同年12月には上海で開催された京劇俳優による歌唱大会を鑑賞したことが報道され、健在ぶりを示したが[35]2011年4月に急病で入院。一時は意識を失うまで容態は悪化した。7月1日に開催された中国共産党創建90周年記念祝賀大会には欠席し、再び健康不安説が表沙汰になった[36]。その後まもなく香港や日本の一部マスメディアが死亡説を報じたが、実際には自宅療養しており[37]、8月ごろから回復。10月9日人民大会堂で開催された辛亥革命100周年記念式典では、歩行に介助が必要ではあったものの出席を果たし、死亡説を払拭した[38][39]

2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では党総書記である習近平の左隣に胡錦濤とともに並んで健在ぶりをアピールした[40]

2017年10月18日の中国共産党第十九回全国代表大会では党総書記である習近平の両脇に胡錦濤とともに並んで党の団結をアピールした[41]。最後に公の姿を見せたのは2019年10月1日に開催された建国70周年式典で[42]、96歳となっていた2022年10月16日に開幕した中国共産党第二十回全国代表大会には姿を見せなかった[43]

死去

2022年11月30日12時13分(CST)(JST:13時13分)、上海華東病院[44]で死去した。96歳没[45]。新華社通信による報道によれば、死因は白血病多臓器不全とされる[1]。江の訃報は中国中央電視台が特別番組として報道し、新華社通信や百度などの中国のサイトが弔意を表すためのモノクロに切り替わった。また、当局は江の死を悼み、天安門広場や人民大会堂、在外公館に対し、半旗の掲揚を求めた[46]

江の死去に際し、ラオストーンルン・シースリット国家主席と会談した習近平は席上「われわれは沈痛に悼んでいる」と弔意を示し「悲しみを力に変え、全面的な社会主義現代化国家の建設と中華民族の偉大な復興推進のため、団結・奮闘する」と強調した[47]

12月1日、江の遺体が北京に到着し、中国人民解放軍総医院英語版に安置された[48]。その後同月5日、習近平、胡錦濤らに見送られ、遺体は八宝山革命公墓火葬された[49]。同月6日に人民大会堂で追悼大会が行われ[50]、その際には中国全土でサイレンが鳴らされた[51]。同月11日、生前の江と遺族の意向により、中南海に安置されていた遺骨が上海まで運ばれ、長江河口で海軍の艦艇上から遺族と中央書記処常務書記の蔡奇により散骨された[52]

日本の政府・政党関係者も江の死去を受けて、弔意を示すコメントが出された[53]

  • 岸田文雄首相は、中国当局関係者に対し「江沢民閣下の御逝去の報に接し、深い悲しみに堪えません。江沢民閣下は、改革開放政策を推進し、中国の発展に貢献されたのみならず、1998年には中国の国家主席として初めて我が国を公式訪問されるなど、日中関係において重要な役割を果たされました。ここに謹んで江沢民閣下の御冥福をお祈りするとともに、御遺族の方々、中国政府及び国民に対し衷心より哀悼の意を表します」[54]とメッセージを送った。
  • 自由民主党の二階俊博元幹事長は「江沢民・元国家主席は、中国の発展に大きく貢献し、1998年に初めて日本を訪れて『日中共同宣言』を発出するなど両国の友好協力関係の増進に大きな役割を果たした。私が運輸大臣を務めていた2000年に画家の平山郁夫氏を団長とする5200人の日中文化交流使節団とともに訪中した際には、人民大会堂で暖かく迎えて頂いたことをきのうのことのように思い出す。江氏の功績をしのびつつ、謹んでご冥福を祈り、遺族にお悔やみ申し上げる」とコメントした。
  • 公明党の山口那津男代表は「天安門事件のあと、社会主義における資本主義化を進めて、今日の中国の発展の礎を築いた。20年ほど前に中国を訪れた際、体格のがっちりした、堂々たる風格を遠くから拝見したが、大きな影響力を示して発展を導き出した役割は大きかったと思う。日本を訪問した際には、不興を買うような発言もあったが、次の胡錦涛時代につながる、日本企業の中国進出の道を開いた。96歳という年齢を考えると、天寿を全うされたのではないか」とコメントした。
  • 立憲民主党の小沢一郎衆議院議員は、かつて新進党の党首時代に訪中して江と会談したことがあり、「一つの時代の終わりを感じる。親しくお話しさせていただいた時のことが懐かしく思い出される。中国経済を発展させ、中国国民の生活を豊かにしたいという強い思いをもって果断に行動された、けうな指導者だった。責任ある大国として、まだまだ後輩にアドバイスをお願いしたかった。心からご冥福をお祈り申し上げる」とコメントした。

注釈

  1. ^ 鄧小平は1987年に政治局常務委員を辞任したが、軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位には留まった。さらに、第13期1中全会において、重要問題については引き続き鄧小平の指導を受けるという決議がなされた(この決議は秘密とされていたが、第二次天安門事件直前の1989年5月にソビエト連邦最高会議議長兼共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにした)。鄧小平は1989年に党中央軍事委員会主席の地位を江沢民に譲り、無位無官の身となったが、第13期1中全会の決議により、事実上の最高実力者として江沢民政権に影響力を発揮していた。なお、1994年9月の第14期4中全会において、中央指導体制の第2世代(鄧小平を中心とする世代)から第3世代(江沢民を中心とする世代)への移行が完了したとする公式声明が発表され、これにより鄧小平は政治指導から全て退くこととなった。
  2. ^ 第16回党大会に先立つ2001年、江が中国共産党創立80周年を記念する講話で「三つの代表」理論を初めて打ち出した際、保守派のイデオローグであった鄧力群らは「階級性こそ党の基本的属性であり、私営企業主の入党は党規約違反である」と批判し、江を「党大会や中央委員会に諮らず重大問題を個人で発表したことは、重大な党規約違反である」と弾劾した。

出典

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  9. ^ 矢吹晋『鄧小平』(講談社〈講談社現代新書〉、1993年)は、1989年5月末の段階で江沢民が総書記に内定していたとする。
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