江沢民の側近として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 22:15 UTC 版)
1984年に上海市党委員会に赴任した。党委組織部長、党委秘書長を歴任し、1986年からは宣伝担当の党委副書記となった。1989年の第二次天安門事件直前、上海市党委書記として曽慶紅の直属の上司だった江沢民の指示を受けた曽慶紅と陳至立は、改革開放の急先鋒だった『世界経済導報』を停刊とした。鄧小平ら党指導部は同誌を停刊に追い込み、「経済開放、政治安定」を目指す江沢民の政治手腕を高く評価し、これが天安門事件後に江沢民が党総書記に抜擢される契機となった。つまり曽慶紅は江沢民の総書記就任に大きく貢献したことになる。天安門事件後、江沢民が党総書記に就任すると、曽慶紅は北京に呼び寄せられて党中央弁公庁副主任に任命された。 中央で江沢民の右腕として頭角を現していった曽慶紅は、1993年に党中央弁公庁主任兼中央直属機関工作委員会書記に就任し、党総書記の秘書として幹部の任免に影響力を行使するようになった。その前年の1992年には、軍部に強大な力をもつ長老・楊尚昆・楊白冰兄弟を軍内から追放して江沢民の軍掌握を助けている。また、北京に地盤を築き、天安門事件の論功行賞に不満を漏らしていた北京市党委書記の陳希同も汚職事件を暴いて失脚させ、さらには遠華密輸事件を摘発して、鄧小平が軍部における江沢民の補佐役として指名していた中国人民解放軍の長老・劉華清の影響力を削ぐなど、江の権力強化に貢献した。2002年の第16回党大会では、江沢民の政敵であった李瑞環(当時68歳)を、定年前であるにもかかわらず、政治局常務委員・全国政治協商会議主席から引退へ追い込んだ。
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