三笠 (戦艦)
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三笠 | |
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佐世保に入港した「三笠」 (1905年2月18日もしくは19日撮影) | |
基本情報 | |
建造所 |
ヴィッカース・サンズ社[1] バロー=イン=ファーネス造船所(イギリス)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 戦艦 |
級名 | 敷島型(四番艦) |
艦歴 | |
計画 | 第二期拡張計画[3] |
発注 | 1898年9月26日 |
起工 | 1899年1月24日[1] |
進水 | 1900年11月8日[1] |
竣工 | 1902年3月1日[1] |
除籍 | 1923年9月20日 |
現況 | 記念艦として保存 |
要目 | |
排水量 | 15,140トン(常備) |
全長 | 131.7m |
最大幅 | 23.2m |
吃水 | 8.3m |
機関 | 15,000馬力 |
速力 | 18ノット |
航続距離 | 10ノットで7,000海里(約13,000km) |
乗員 | 860名 |
兵装 |
主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門 副砲 40口径15.2センチ単装砲14門 対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門 47ミリ単装砲16基 魚雷発射管 45センチ発射管4門 |
装甲 |
KC装甲鋼板(クルップ鋼) 舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)KC鋼[4] 甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)[4] 砲塔:14in(355.6mm)-8in(203.2mm)[4] 砲郭:6in(152.4mm)-2in(50.8mm)[4] |
神奈川県横須賀市に静態保存されており、世界三大記念艦の一つとされている[注釈 1]。
概要
軍艦「三笠(みかさ)」は、敷島型戦艦の四番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され、1902年(明治35年)3月に竣工[6]。奈良県にある三笠山(春日山)にちなんで命名された[7]。 船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦は「敷島」「初瀬」「朝日」。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した[8]。1905年(明治38年)5月末、連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦う。同年9月11日、佐世保港で爆沈した[9]後に浮揚・修理され、1908年(明治41年)4月下旬に修理工事を終えた[9]。1912年(大正元年)10月3日、前部火薬庫火災事故を起こす[10]。
大正時代は北方警備に従事した(シベリア出兵)[7]。1921年(大正10年)9月1日、海防艦に類別変更。1923年(大正12年)9月1日、横須賀軍港で関東大震災に遭遇、着底した[11]。ワシントン海軍軍縮条約により除籍され、横須賀で記念艦となった[12]。現在は防衛省が所管し、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
歴史
建造
日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進めた。その中で『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環、その最終艦として「三笠」はイギリスのヴィッカースに発注されて建造された[13]。
1899年(明治32年)1月24日、バロー=イン=ファーネス造船所で起工。1900年(明治33年)11月8日、進水した[7]。1902年(明治35年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日にサウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。
3月13日、イギリスのプリマスを出港。回航員の中には野村吉三郎(海軍少尉。後日、真珠湾攻撃時の駐米大使)もいた[14]。スエズ運河経由で5月18日に横須賀へに到着した[7]。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後の6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴港に到着した。
戦歴
1903年(明治36年)7月24日、皇族軍人の伏見宮博恭王(海軍大尉、9月26日に少佐進級)が「三笠」に着任、後部砲塔(主砲)を指揮する第三分隊長となった[15]。12月28日、「三笠」は連合艦隊旗艦となった[15]。 1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、2月9日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加した。3月5日、加藤寛治少佐(当時、姉妹艦「朝日」砲術長)が「三笠」砲術長に任命された[15][16]。 8月10日、黄海海戦に参加した。「三笠」の被弾箇所は20数個を数えた[17]。砲戦中の午後5時58分頃、公式には被弾[18](実際は砲弾が砲身内で自爆する膅発)[注釈 3][19][20]により後部砲塔で爆発が発生、戦死1名・負傷16名を出す[注釈 4][15]。伏見宮博恭王少佐も負傷した[16]。「三笠」での勤務や海戦をきっかけに、東郷と加藤[21]、あるいは加藤と伏見宮博恭王の親密な関係が始まった[22]。 12月28日、三笠は呉に入港、修理を行う。膅発の原因は解明されず、各艦は不安を抱えたままであった[23]。
1905年(明治38年)2月14日に呉を出港、江田島・佐世保経由で21日に朝鮮半島の鎮海湾に進出。以後、同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日に日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。「三笠」艦長は伊地知彦次郎大佐、砲術長は安保清種少佐[24]。膅発を恐れて「三笠」では帆布を用いた応急措置を行ったが、それでも「三笠」「敷島」「日進」で膅発が起きた[25]。
この2日間に渡る海戦では、日本連合艦隊は戦力の劣勢をカバーするために敵前T字戦法を採用し、激戦の末大ロシア艦隊を撃破する。連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は三笠上で、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」という訓示とともに、Z旗を掲げて全艦隊の士気の高揚を図り大勝利を収める。これにより、その後日本海軍では、重要な海戦でZ旗を掲揚することが慣例化されていった[26][27]。なお、この海戦で「三笠」は113名の死傷者を出した。
日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した[9]。この事故では339名の死者を出した。弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけたのち、吹き消してにおいを飛ばして飲む」(兵員達は「ピカ」と呼んでいた)悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり返したことが原因とする説や[28]、下瀬火薬の変質が原因という説もある。事故当時、東郷は上陸していて無事であった。艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、事故当時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。
10月23日の海軍凱旋式は、「三笠」に代わって姉妹艦「敷島」が旗艦となった。明治天皇の御召艦は装甲巡洋艦「浅間」であった[29]。「三笠」は予備艦とされた。12月12日、艦艇類別等級表の改定に伴い[30]戦艦の等級が廃止され、「戦艦」に類別される[31]。 1906年(明治39年)8月14日に浮揚、佐世保工廠で修理された[7]。 1908年(明治41年)4月24日、工事終了[9]。第一艦隊旗艦として現役に戻った。 同年9月25日朝、明治天皇皇太子(のちの大正天皇)は青森県青森港から「三笠」(第一艦隊司令長官伊集院五郎中将、「三笠」艦長奥宮衛大佐)に乗艦する[32]。皇太子は「三笠」で大湊要港部へ移動し、同地を視察する[33]。夕刻、三笠は青森港に戻り皇太子は退艦した[34][35]。
1912年(大正元年)10月3日午後6時40分、前部火薬庫で火災が発生、注水して爆沈を免れる[36]。火薬庫で自殺を図った水兵が死亡したほか、負傷者複数名を出した[37]。 1914年(大正3年)8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に「三笠」は日本海などで警備活動に従事した。その後、1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間、大戦中にロシア革命により誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加した[38]。大正7年当時、木村昌福(後日、第一水雷戦隊司令官等)が海軍中尉として「三笠」で勤務していた[38]。シベリア出兵参加前、「三笠」では防寒工事が実施され、水上飛行機の臨時搭載も行った。横廠式ロ号甲型水上偵察機などは分解状態で「三笠」に搭載し、氷上や水上に下ろして発進した[39][40]。
1920年(大正9年)の尼港事件の際は砕氷艦「見島」(元ロシア海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン」)とニコラエフスクへ救援に向かったが堅氷に阻まれ入港できなかった。このため約700名の日本人と数千名のロシア人は救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。日本海軍最初の砕氷艦「大泊」が竣工したのは、翌年11月であった[41]。
1921年(大正10年)9月1日、「三笠」は海防艦(一等海防艦)に類別される[42]。 9月16日、「三笠」はウラジオストク港外のアスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁して大きく損傷し、浸水[7]。離礁後、ウラジオストクに入渠して応急修理を行った[7]。11月3日、舞鶴に帰投した。
廃艦
戦間期のワシントン軍縮条約によって「三笠」は廃艦が決定した[7]。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであったウラジオストク沖での破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底した[43]。9月20日、除籍された[7]。
姉妹艦のうち、「敷島」と「朝日」は武装を撤去した後に練習特務艦として再利用された[44][45]。「三笠」は解体される予定だったが、国民から愛された「三笠」に対する保存運動が勃興し、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められる[7]。1925年(大正14年)1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。6月18日に保存のための工事が開始された。舳先を皇居に向けた後に船体の外周部に大量の砂が投入されるとともに、下甲板にコンクリートが注入された。この日以降、「三笠」は海に浮かんでいるのではなく海底に固定されており、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わらない状態となっている。保存に際して廃艦時に撤去した兵装の復元は行われなかったが、砲塔等は木製のダミーが取り付けられた[46][注釈 9]。
1926年(大正15年)11月12日、三笠保存記念式が行われる[48]。式典には摂政宮(大正天皇皇太子/昭和天皇)、高松宮宣仁親王など皇族一同、井上良馨元帥、東郷平八郎元帥(三笠保存会名誉会長)、阪谷芳郎三笠保存会会長、財部彪海軍大臣など重鎮多数、さらに伏見宮博恭王(元「三笠」分隊長)、加藤寛治横須賀鎮守府司令長官(元「三笠」砲術長)など日露戦役当時の「三笠」乗組員も参列した[49]。
太平洋戦争(第二次世界大戦)において、姉妹艦「朝日」は工作艦として南方作戦に参加し[50]、1942年(昭和17年)5月25日に潜水艦の雷撃で沈んだ[51]。 「敷島」は佐世保で練習特務艦として[52][44]、「三笠」は横須賀で保存艦として、戦争期を過ごした。ドーリットル空襲時、横須賀に襲来したB-25爆撃機は「三笠」上空から爆撃を開始[53]、横須賀海軍工廠で潜水母艦から航空母艦へ改造中の「大鯨(龍鳳)」に命中弾を与えた[54]が、「三笠」に被害はなかった。マーシャル諸島のウォッジェ環礁(ウオッゼ環礁)には第四艦隊隷下の第64警備隊が駐留していたが、同島の防備のため「三笠」と「春日」から取り外された15㎝副砲が計6門提供されたという[55]。ウオッゼ環礁の砲台はクェゼリンの戦いにおいて、アメリカ海軍艦隊との交戦により破壊された[注釈 10]。
また、貨客船愛国丸(大阪商船、10,437トン)の特設巡洋艦への改装の際、「三笠」から取り外された15㎝副砲8門が提供されたという[56]。愛国丸の主砲は1942年(昭和17年)3月に三年式14cm砲に換装された[57]。
戦争末期の1945年(昭和20年)7月18日、横須賀軍港への空襲により同港係留中の練習特務艦「富士」(元戦艦)[58][59]と「春日」(元装甲巡洋艦)[60]が損傷・浸水して着底したが、「三笠」に被害はなかった。
その後の荒廃
終戦後、日本が連合国軍に占領されていた時期に、日露戦争で敗北したロシア帝国の後継国家ソ連のクズマ・テレビヤンコ中将からの要求で解体処分されそうになったが、愛国主義者だったアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー少将らの尽力によりこれを逃れた。
敗戦から1年経たない1946年4月の時点で、切断可能な金属は日本人の窃盗犯よりガスバーナーで切断されて盗まれ、甲板のチークは薪や建材にするために盗まれ、「三笠」は急速に荒廃していた[61]。
東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥は東郷の乗艦であった三笠の状況を知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて三笠を護ろうとした。
しかし連合国軍の構成国で横須賀港を接収したアメリカ軍のために娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上に開かれた。のちに後部主砲塔があった場所に水族館が設置された。[注釈 11]
復元運動
この惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンが英字紙『ジャパンタイムズ』に投書、大きな反響を呼んだ。さらに、前述のように東郷平八郎を敬愛しており、「三笠」の惨状を憂いた米海軍のチェスター・ニミッツ元帥が著作『ニミッツの太平洋戦争史(The Great Sea War)』の売上の一部を「三笠」保存や東郷神社再建奉賛会に寄付するなどして[62]、国内外の人々の間で復元保存運動が徐々に盛り上がりを見せていった。 1956年(昭和31年)5月には、吉田英三(横須賀地方総監)が防衛庁移管のための上申書を出している[注釈 12]。
日本での当時の世論は復元保存派と完全撤去派と賛否両論の真っ二つに分かれた。後者の場合、軍艦を重要文化財に指定した前例が過去になかったのと、既に荒廃していた「三笠」を仮に復元したとしても指定が難しいという理由があった。更に高度経済成長期だったため、約四千トン分の鉄屑として売り払い(当時の時価として八千万円分)、それを資金に記念館を作るべきという意見すらあった。三笠保存会が民間から寄付を募ったが、1958年時点では一億円にも届かなかったという[64]。
海上自衛隊としても維持できる予算が取れない上に「動かない艦など引き取れぬ」というコメントを当時の海上幕僚副長だった伊藤邦彦が述べている。伊藤は帝国海軍の出身で、個人的意見は保存に賛成であった[65]。 最終的にアメリカ海軍がLST(戦車揚陸艇)を日本政府に寄付して予算を上積みするなど[注釈 13]、予算は国会で承認された。民間の寄付を合わせて復元工事が1959年に始まると、同年6月27日に所管が大蔵省から防衛庁(現・防衛省)に移管された[67]。工事は1961年に完了し、同年5月27日に復元記念式が挙行された[68]。参列者は義宮正仁親王、木暮武太夫(運輸大臣、池田首相代理)、西村直己防衛庁長官など[68]。
復元にあたり、長官室に設置されていたテーブル等をはじめ、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼ全てが完全な形で返還されたが[69]、誰が持ち去ったか不明なものは(戦後の混乱期で致し方ないことがあったとしても)、今日に至るまでほとんど返還されていない。1958年(昭和33年)にチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が除籍され、翌年日本において解体されたが[70]、同じイギリスで建造された艦であったため、チリ政府より部品の寄贈を受けるという幸運があった[71]。
現在
三笠は世界で現存唯一の前弩級戦艦である。第二次世界大戦後の荒廃により、本来の状態で残る部分は少なく、砲塔や煙突、マストなどは複製され、主砲は鉄製[72]で砲塔と一体化して砲身の下から支柱[注釈 14]で支持し、甲板の大半も溶接工法で復元するなど、戦後に大きく修復された。
下甲板のうち伏見宮の使用していた士官室は保存されているが、それ以外は三笠保存会の事務室や資料室として使われており非公開。下甲板より下はワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められている。現在、艦内の見学範囲は上甲板と中甲板だが資料展示室や上映室などが設けられ、艦後部の一部を除いて軍艦の様相はうかがえずに軍艦形状の資料館となっている。
甲板の一部に現役軍艦当時のままのチーク材や、トイレットルームのタイル床、奇跡的に盗難を免れた錨と鎖およびアンカークレーンが残る。先述のチーク材が残る通信室付近一帯の鋲接構造は、第二次世界大戦後に溶接で復元された箇所を除いて当時の遺構である。船首にあった菊花紋章は、1987年まで当時の状態で残されていたが現在は復元品に交換され、本体は艦内で公開保存されている。
記念艦として静置されて以来、日露戦争時に用いられた軍艦旗28枚を「記念軍艦旗」として艦内に保管していたが、「三笠」の軍艦旗を除き、敗戦後にアメリカ軍の将兵に盗まれ、散逸した[73]。2015年8月5日、散逸したうちの1枚がアメリカ海兵隊退役軍人会から三笠保存会に返還された[73]。三笠保存会では、返還された軍艦旗は、大きさから戦艦「朝日」のものである可能性が高いとしている[73]。
三笠保存会が管理を受託しているが、日本国防衛省が所有する行政財産であり、海上自衛隊横須賀地方総監部の施設「旧三笠艦保存所」として登録されて検査や修理費は防衛費を充てる[74]。防衛施設ではないものの[75]、防衛省訓令上は「船舶」として扱われており[76]、点検・修理を行う事業者は造修補給所によって資格審査を受け、防衛省船舶設計基準や自衛艦工作基準に関する専門的知識を有する必要がある[74]。会計評価額は2円で土地は約2億5千万円[77]である。
自衛隊員は、横須賀教育隊の一般曹候補生が「三笠研修」として訓練見学に訪れ[78]、隊員有志らはボランティアで清掃活動[79]している。上記国家財産として充てられる予算は少なく[80]、2009年に横須賀に寄港したアメリカ海軍空母「ニミッツ」の乗員が、三笠の船体塗装のボランティアを行った[80]。
平日は観覧料が必要であるが、成人の日に新成人のみ観覧が無料となる[81]。
内部には、VR(バーチャルリアリティ)ゴーグルを付けて日本海海戦を疑似体験できる操艦シミュレータや展示コーナーなどがある[82]。
2020年には新型コロナウイルスの流行に伴い一時臨時休館となり、日本海海戦115周年記念式典も満艦飾の掲揚のみで中止となった[83]。
注釈
- ^ 世界の三大記念艦は、イギリス海軍「ヴィクトリー」、アメリカ海軍「コンスティチューション」、大日本帝国海軍「三笠」[5]。
- ^ 「三笠(みかさ)
艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり)
艦名考山名に採る、三笠山は大和國添上郡春日郷(今奈良市)の東に在り、春日山の内なり。山状笠を覆ふが如きを以て此名起れるならん。古書に御笠山にも作れり。此の地古來神靈の地又名所として著はる。
艦歴明治33年3月1日英國にて竣工、同月13日英國出發、5月18日横須賀到着。明治37・8年戰役に從軍(第一艦隊第一戰隊、聯合艦隊司令長官中将(後に大将)東郷平八郎旗艦、艦長大佐伊地知彦次郎: 同37年8月黄海々戰に参加、同38年5月日本海々戰に参加、同9月11日午前0時半佐世保軍港碇泊注爆破擱座、翌39年8月14日引揚を了し後ち修理し復舊、同12月戰艦の等級を廢せらる。大正3年乃至9年戰役に從軍: 同7年5月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐山本英輔)、同9年4月同右(艦長中佐迎邦一)、同年9月16日「アスコルド」海峡にて坐礁、同月26日離礁後浦鹽に入港修理をなす。同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日華府條約により除籍。
本艦は明治37年5月27日、日本海々戰に聯合艦隊司令長官東郷平八郎大正坐乗して帝國全艦隊を指揮し、名誉の戰闘を爲したる艦なり。此海戰に於て帝國を世界に顧揚せる𤳱古の偉績と共に、旗艦三笠を永久に保存せんとする國民的熱望あり、ここに除籍艦籍に入るを機とし、今後戰闘任務に堪へざる状態と爲し、其の船體を横須賀の地と卜し、陸岸に固定して紀念艦とし、以て永久に之を保存することとなれり(斯種軍艦の廢棄に關しては華府條約の規定に關係あるを以て、本艦永久保存に就ては米國其他關係列國の承認を經て之を行へり)。
要目長432呎/幅75呎/喫水27呎/排水量15,200噸/機關 汽筒直立三聯成汽機2基 ベルビル罐25臺/馬力15,000/速力18/乗組人員756/船材 鋼|兵装 12吋砲 4/6吋砲 14/12听砲 20/3听砲 8/2.5听砲 4/其他 4/發射管 4/起工 明治32-1-24/進水 同33-11-8/竣工 同35-3-1/建造所 英國ヴィッカース社」 - ^ 「とうはつ」と読む。
- ^ 資料によっては負傷18名とする。
- ^ 「三十八年三笠爆沈ニ就キ聞キタル事 海軍中尉 松本善治」
(前略)私ハ點呼ノ爲メ横須賀ニ行クモノナリ 私ハ海軍満期前佐世保海軍病院ニ在勤セシカ三笠爆沈ノ翌日同艦乗組ノ一重傷者ヲ看護セシニ火傷重リテ瀕死ノ折 傷者ノ懺悔ニ曰ハク「余ハ三笠爆發ヲナシタル一人ナリ 三笠ニテハ戰役中ヨリ發光信號用ノ「アルコール」ヲ窃取シ水ヲ混シ飲用スルコト(兵員ハ俗ニ「ピカ」ト称ス)流行セシカ余モ同輩数名ト結ヒ信號用ノ工業「アルコール」ヲ洗面器ニ入レ彈藥通路ニ携帶シ行キ先ツ火ヲ點シ木精臭気ヲ抜キ後ニ火ヲ吹消シ水ヲ入レテ薄メントセシニ火ハ洗面器ヨリ溢出シ甲板ニ廣カリタレハ上衣ニテ毆キ必死ニ防火セシニ洗面器倒レ通路全部火災ヲ起シ極力防火セシモ及ハス遂ニ大火傷負ヒ上甲板ニ遁ケ出セリ次テ大爆發トナリタリ 今死ニ臨ミ其原因ヲ明ニス」ト看護ハ尚語ヲ續ケ「余等同輩ハ死人懺悔談ヲ公ニスルニ忍ヒスシテ其儘黙シ居リシカ貴公方ハ後來ノ兵員ヲ監督セラルル方ナレハ参考迄ニ申上クル次第ナリ」ト。(以下略) - ^ 〔 達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、|〕
- ^ 〔○東宮御安著 皇太子殿下ハ本月二十五日午前六時五十五分弘前御旅館御出門同七時十四分弘前停車場御發車同八時二十分青森停車場御著車青森桟橋ヨリ軍艦三笠ニ御移乗同九時同所御發艦同十一時三十五分大湊要港御著艦御上陸要港部御巡覧ノ上午後二時十五分御發艦同五時青森港御著艦御上陸同五時二十五分青森御旅館(青森縣知事官舎)ヘ御安著アラセラレ(以下略) 〕
- ^ 〔 達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ 〕
- ^ 撤去された主砲は現在の三笠売店付近に移設して展示されていたが[47]、敗戦後に盗まれ、失われた。
- ^ 『最前線指揮官の太平洋戦争』228頁では、「三笠」の元副砲が重巡「ルイスビル」に損傷を与えたとするが、実際は重巡「インディアナポリス」からの誤射であった。砲台との交戦で損傷したのは駆逐艦「アンダーソン」であったという。
- ^ この状態の「三笠」の写真が残っている。
- ^ 日露戰の旗艦三笠 復元して保存[63] 横須賀(共同)十五日發=日露戰爭當時の旗艦三笠はま横須賀市白濱海岸にマストも煙突も大砲もなく、艦内は喫茶店兼ダンス・ホールと變り、曾ての軍神『東郷元帥』の部屋も荒れ放題のまゝだが、これを見兼ねた海上自衛隊横須賀地方隊吉田英三總監は横須賀市と話し合い、復元して保存することに決まり、このほど防衛廰長澤海上幕僚長あて防衛廰移管上申書を出した(中略)(吉田總監談)英國にはネルソン提督の旗艦ヴイクトリア號がポーツマス港に殘してあり、アメリカのアナポリスにも獨立戰爭當時のインデペンヂンス號が立派に保存されている、それらに比べ三笠の荒廢ぶりは國民の一人として見るに忍びない、是非防衛廰に移管、復元を完成したい(記事おわり)
- ^ 三笠修復に米海軍協力[66] 日本海海戰の旗艦『三笠』を修復するため、防衛廰が三十四年度豫算に五千萬圓を計上して國會の問題になつてるが、同廰は『米海軍がこれに協力、LST(戰車揚陸艇)と一隻を日本政府に寄贈する』と發表した 當のLSTは約千六百五十トン、目下横須賀の米海軍基地に係船中で、十二月十四日午後二時から同港で引き渡された、これをスクラップにした賣り上げ金(約三千萬圓の豫定)を資金の一部にあてるという 三笠の修復は防衛廰豫算五千萬圓と三笠保存會(澁澤敬三會長)が民間から集める一億五千萬圓の寄附金で近く着工される豫定、防衛廰では『こんどの寄贈はぜひ海上自衛隊の三笠を保存したいという精神に米海軍が共鳴したから』と意氣高らかである(記事おわり)
- ^ 本来は支柱は無い。
出典
- ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.38
- ^ #日本の戦艦(上)2001p.19
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年
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