プラハの春 軍事介入とその帰結(チェコ事件)

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プラハの春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 06:02 UTC 版)

軍事介入とその帰結(チェコ事件)

チェコ事件

戦争:チェコ事件
年月日:1968年
場所:チェコスロバキア、プラハ
結果:ソビエト連邦側の勝利
交戦勢力
ソビエト連邦
ポーランド
ブルガリア
東ドイツ
ハンガリー
チェコスロバキア
援助国:
アルバニア
ルーマニア
ユーゴスラビア
指導者・指揮官
レオニード・ブレジネフ
アンドレイ・グレチコ
アレクサンデル・ドゥプチェク
ルドヴィーク・スヴォボダ
マルチン・ドズル
ニコラエ・チャウシェスク

8月20日夜11時頃、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロバキア全土を占領下に置いた。

革命労農政府樹立の失敗

軍事介入の実施はチェコスロバキア共産党幹部会における党内保守派による労農革命政府の樹立と連動する計画であった。しかし、侵攻当日の幹部会は、9月9日の党大会の準備作業に忙殺され、保守派が用意した情勢報告に基づくドゥプチェク指導部の交代と、新たに発足した指導部による「介入の要請」というシナリオは狂いはじめた。結局、介入の連絡が党幹部会に届いたとき、保守派は、多数を占めることができず、反対に軍事介入を非難する声明が採択された。こうしてソ連などの介入はチェコスロバキアからの要請によると宣伝したにもかかわらず、当のチェコスロバキア側が介入を非難するという逆説的な状況が生まれた。それでも、革命労農政府を樹立するという計画は、翌日も、ホテル・プラハおよびソ連大使館において、モスクワから派遣されたマズロフ政治局員やチェルヴォネンコ大使を交えて、継続的に試みられた。最終的に、スヴォボダ大統領の決断を仰ぐことになったが、彼は、ドゥプチェクらの解放とブレジネフ指導部との直接交渉を優先させ、新政府の樹立を拒否した。

第14回臨時党大会

22日、プラハのヴィソチャニ地区にある工場では、急遽、第14回臨時党大会が開催された。この案は介入直後に共産党プラハ市支部の指導者ボフミール・シモンがドゥプチェクに提案し、ラジオや党機関紙などを通じて連絡が伝えられた。こうして、軍事占領という異常事態にあって、1,112名(最終的には1,219名)が集まった(ただし交通事情などの理由でスロヴァキア代表は15名程度に止まり、この点が後に党大会の無効を求める主張の論拠となった)。大会は、軍事介入を非難し、拘束されたドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を採択した。

チェコスロヴァキア国民の受動的抵抗

当日、国営放送は国歌「ヴルタヴァ(モルダウ)」を流し続けるのみで対外的には何のアナウンスもせず、また国際電話ニュースの外信用テレックスも封鎖され、唯一規制出来なかったアマチュア無線からの発信と、交信に応じた局や傍受したBCLによって事件は全世界の知るところとなった。

国際社会の反応

ソ連のチェコスロバキア侵攻に関して、21日、アメリカイギリスカナダUKUSA協定参加国)、フランスの要求で国連安保理が招集された。この四国にブラジルデンマークパラグアイが加わって共同提出した「侵攻が国連憲章に反する内政干渉であり、即時撤退」を求める決議は、賛成10、棄権3、反対2の採決結果を見たが、ソ連が拒否権を行使したため廃案となった。またカナダは、国連事務総長がプラハに特別使節を派遣する決議を提起し、24日には、介入当日にユーゴスラビア訪問中だったハーイェク外相が国連で軍事介入を非難した。しかし、「モスクワ議定書」が締結された結果、チェコスロバキア側が議題を取り下げたことで、国連での議論は効果的な措置を講じることなく終わった。

他方、西側陣営、特にアメリカはドゥプチェク指導部による改革運動に共感を寄せつつも、具体的な行動をとることはなかった。その背景には、核拡散防止条約の調印や戦略兵器制限交渉の開始など、ソ連との関係改善に期待をかけ、チェコスロバキアに関わることで、こうした流れが中断される懸念があった。またチェコスロバキアとの関係に関しては、当時アメリカが泥沼にはまっていたベトナム戦争において、チェコスロヴァキアが北ベトナムへの兵器供与国であったこともジョンソン政権が積極的支持を躊躇させる要因のひとつとして指摘できる。そのため、チェコスロヴァキアの状況よりも、予定されていたモスクワ訪問の行方に対する軍事介入の影響を気にかけたジョンソンの反応は、冷戦下のヨーロッパ分断状況、米ソの勢力圏に対する相互不干渉という暗黙のルールを示唆するものであった。

クレムリンでの交渉

当初の目論見が崩れ、チェコスロバキア側の受動的抵抗に直面したブレジネフらソ連指導部は、事態収拾策として、スヴォボダの要求を受け入れ、23日から、クレムリンで交渉が始まった。しかし「反革命勢力」と名指しし、拘禁していたドゥプチェクらと交渉するというブレジネフの方針に関しては異論が投げかけられた。モスクワに集結していた介入当事国首脳は、24日にソ連指導部の方針を知らされたが、この場でウルブリヒト、ゴムウカ、ジフコフは、あくまでも革命労農政府の樹立を求め、必要ならば一定期間の軍事占領を実施する強硬意見を述べた。また25日のソ連共産党政治局会議でも、同様にブレジネフやコスイギンが描く事態収拾策に対して異議が出された。

「モスクワ議定書」

4日間の交渉の結果、26日、両指導部の間で「モスクワ議定書」が締結された。議定書は、15項目から成り、マスメディアの統制、改革派の更迭といったチェルナ会談での「合意」事項を再確認したうえで、22日に臨時に招集された党大会の無効が明記された。また介入軍の撤退問題については、具体的な時期が曖昧なままにされた。

ブレジネフ・ドクトリン

チェコスロバキア介入を正当化する論理は、後に「制限主権論」あるいは「ブレジネフ・ドクトリン」と西側で呼ばれた。その主張は、9月26日の『プラウダ』に掲載のコヴァリョフ論文「主権と社会主義諸国の国際的責務」と、11月のポーランド統一労働者党第5回党大会におけるブレジネフの演説(『プラウダ』11月13日掲載)に端的に見られた。つまり「一国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国はそれに無関心ではいられず、全体の利益を守ることに、一国の主権は乗越えられる」というものであった。その際、主権は階級的観点から再解釈され、主権尊重と内政不干渉よりも社会主義の防衛が上位に置かれた。なお「ブレジネフ・ドクトリン」は、軍事介入を正当化するために後付けで急遽持ち出された論理ではなく、それ以前のワルシャワ書簡やブラチスラヴァ宣言にも同様の論理を見出すことができる。またスターリンやフルシチョフ時代の対東欧政策全般を貫いていた指針である点で、ブレジネフの名を冠しているが、彼の独創的な政策というわけではない。

正常化体制の始まり

モスクワから戻ったドゥプチェクたち指導部は、国民に対し、改革の継続を表明した。しかし、「モスクワ議定書」の履行を求めるソ連と、それに連動する国内親ソ派からの圧力によって、ドゥプチェク指導部の選択肢は次第に狭められていった。たとえば、介入以降チェコスロバキアに留まっていたソ連軍の撤退問題は、10月、暫定駐留条約の締結によって、実質的に正当化された(最終的なソ連軍の撤退は1989年共産党体制崩壊を待たなければならなかった)。改革派への圧力の矛先は、国民の人気が高かったスムルコフスキーに集中し、国民議会議長職から解任された。

その一方、『行動綱領』が掲げた改革政策のうち、連邦制の導入は、10月28日に実施され、1969年1月1日をもって、チェコスロバキア社会主義連邦共和国となった。

1969年1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺を図った。3月、ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロバキア・チームがソ連チームに勝利したニュースが伝わると、多くの国民が街頭に繰り出し、その勝利を祝った。そしてその一部がプラハのアエロフロート事務所に投石する事件に発展した。ソ連は、この事件を反革命勢力による陰謀と断定し、ドゥプチェクに取締りの強化を要求した。

1969年4月、ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任し、「正常化体制」を進めるが、ドゥプチェクは共産党に踏みとどまった。翌年の1970年6月、ドゥプチェクやチェルニーク、スムルコフスキーなどの改革派幹部は除名され、「プラハの春」は終焉した。




  1. ^ 第12節 国際共産主義運動
  2. ^ Section 5. Situation in mainland China”. 日本国外務省. 2019年4月25日閲覧。
  3. ^ ヘンリー・キッシンジャー「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 241~247P


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