プラハの春・チェコ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:07 UTC 版)
「チェコスロバキア社会主義共和国」の記事における「プラハの春・チェコ事件」の解説
詳細は「プラハの春」を参照 1968年に、チェコスロバキア共産党第一書記に、アレクサンデル・ドゥプチェクが就くと、「人間の顔をした社会主義」と称して自由化政策が実行されていった。しかし、これを危険視したソ連や東欧諸国の指導部はチェコスロバキアと幾度の会談を重ねたが、結局軍事介入に踏み切ることになった。この軍事介入後ドゥプチェクは辞任、後任のグスターフ・フサーク第一書記(大統領兼務 1975年-1989年)の時代には民主化政策は停滞し、「正常化」と呼ばれる時代に入ることとなる。「正常化」体制では改革派の共産党員50万人が除名され、強権的な体制が敷かれた。
※この「プラハの春・チェコ事件」の解説は、「チェコスロバキア社会主義共和国」の解説の一部です。
「プラハの春・チェコ事件」を含む「チェコスロバキア社会主義共和国」の記事については、「チェコスロバキア社会主義共和国」の概要を参照ください。
- プラハの春・チェコ事件のページへのリンク