プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)
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「レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)」の解説
1916年5月26日、かつて果たされなかったプラハでの『イェヌーファ』上演が実現した。上演が実現しなかった要因の一つとして、プラハ国民劇場の首席指揮者カレル・コヴァルジョヴィツ(英語版)がヤナーチェクに対し悪感情を抱いていたことが挙げられる。1887年、ヤナーチェクはコヴァルジョヴィツのオペラ『花嫁』を「威嚇的な暗さと絶望的な悲鳴にみち、短剣が振り回されるいわゆる音楽」、「不安定な和音と動揺する聴感覚をそなえた序曲は、音楽的才能-かなり耳を悪くしてしまう才能-を証明している」と酷評していた。事態が打開したのはヤナーチェクの友人ヴェセリー夫妻のコヴァルジョヴィツに対する説得が功を奏したからであった。プラハ国民劇場での上演はイーアン・ホースブルグ曰く「度肝を抜くような大成功」で、その後ウィーン、ケルン、フランクフルト、リュブリャナ、ポズナニ、リヴォフ、バーゼル、ベルリン、ザグレブなどで上演された。プラハでの上演後、ヤナーチェクはヨゼフ・ボフスラフ・フェルステルへの手紙で次のように述べている。 私はまるでおとぎ話の世界に生きているかのような気持です。わたしはなにかせき立てられるようにして、次々に作曲をしているのです。 — (ホースブルグ 1985, p. 176) この言葉通り、ヤナーチェクはプラハでの『イェヌーファ』上演以降、精力的に作品をつくり出していった。イーアン・ホースブルグはこれを、「異常な力と独創性をそなえた音楽」が「万華鏡のようにほとばしり出(た)」と評している。
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