プラハに滞在(1874年 - 1875年)
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「レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「プラハに滞在(1874年 - 1875年)」の解説
ヤナーチェクは王立師範学校長のエミリアン・シュルツにプラハのオルガン学校で学ぶことを勧められ、1年間の休暇が与えられた。出願に際し、師であるクシーシュコフスキーは以下のような推薦状を書いた。 彼の音楽的才能、特にオルガン演奏の才能は殊のほか傑出したものであり、音楽をあますところなく研究する十分な機会が与えられるならば、彼はいつの日か真にすぐれた音楽家になることでしょう。 — (ホースブルグ 1985, p. 40) プラハ滞在中、ヤナーチェクはアントニン・ドヴォルザークと出会って親交を深め、その音楽を深く愛するようになった。また、ロシアを「全スラブ民族の理想の源泉」と位置付けて親ロシア的な心情を抱くようになり、ペテルブルク留学を志し独学でロシア語を学んだ。ヤナーチェクは後に生まれた2人の子供に、ロシア式の名をつけている。1918年に完成した交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』は「ロシア人をスラヴ民族の救済者であり指導者であるとみなす国家的情熱」が反映された作品とされる。ヤナーチェクの最後のオペラ作品である『死の家より』はフョードル・ドストエフスキーの小説『死の家の記録』を、1921年初演のオペラ『カーチャ・カバノヴァー』はアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐 』をもとに制作されており、他に実行には移せなかったもののレフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』、『生ける屍』を題材にしたオペラの制作を計画していた。また1898年にはロシア愛好者協会を設立して1914年まで会長を務め、1909年にブルノのロシア文化サークルの会長を務めた。文芸評論家の粟津則雄は、ロシアの作曲家を除けばヤナーチェクほど「ロシアの文化や文学と強く結びついた作曲家はちょっとほかに思いつかない」と述べている。粟津は、ヤナーチェクの親ロシア的な心情には政治的な動機はまったくなく、「ロシアとかチェコといった区別を超え、それらをともに包んだ汎スラヴ的なものへの夢想」によるものであったと分析している。 ヤナーチェクは教会音楽を中心としたオルガン学校の教育課程を「きわめて優れている」成績で修了。1875年の夏をズノロヴィの叔父のもとで過ごした後、ブルノに戻った。
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