5歳で樋口フジに弟子入り、瞽女となる
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「小林ハル」の記事における「5歳で樋口フジに弟子入り、瞽女となる」の解説
1905年(明治38年)3月、樋口フジに正式に弟子入り。21年間の年季修行をする約束が交わされ、ハルの親族はその間の経費や稽古料を先払いした。さらに21年の年季が明けるより前にハルの不都合が原因で弟子を辞めた場合には「縁切り金」と呼ばれる違約金を支払うことも取り決められた。ハルには「スミ」という瞽女名が与えられた。 修行は実家で稽古を受け、巡業の時だけ家を離れるという形態で行われた。稽古が始まったのは1907年(明治40年)夏のことで、最初の課題は『岡崎女郎衆はいい女』を三味線を弾きながら唄うことであった。当時ハルは4、5歳児に見えぬほど小柄で大人用の三味線は扱えず、子供用の三味線を膝の上に置いた枕に乗せてようやく弾くことができた。稽古を始めて間もなく弦を抑える左手の指(人差し指、中指、薬指)の皮が破れ、出血した。痛みに耐えかねたハルは母親に泣きついたが、母親は「指が痛くて三味線を習うのができぬようでは、唄だってうたうことはできない。そんな指の痛さを我慢できないような奴は、川に投げてくる」と言って家の近くを流れる信濃川へ連れて行こうとしたり、食事を与えなかったりした。ハルは「痛くても、痛くないふり」をして稽古を続けた。 「寒声」を出す訓練もこの時期から始めた。寒声とは、冬の寒い時期に発声練習をすることで得られる瞽女独自の発声法のことで。出血するほど喉を痛め、声が出ない状態で発声練習を続けると、「ほんとうの声」、「長い語りに耐える変わらぬ声」を身に付けることができるとされる。冬になると毎日早朝と夜に信濃川の土手へ出て訓練をした。「厚着をしたり足袋を履いたりすれば、身体は温かくても声は出やせん」という理由で、薄着の上、素足に草鞋履きという格好をさせられた。足には指が腫れ上がるほどのしもやけができたが、一生懸命に唄うと体が温まり、風邪をひくことはなかったという。ハルはこの寒稽古を、母親と死別した年を除き、14年間にわたり毎年1か月間行った。ハルは寒稽古について「本当にいやだった」と振り返っている。ハルの唄はやがて、村の鎮守神に奉納するまでに上達した。 1908年(明治41年)春、ハルは初めて自らの意思で外出することを許可された。巡業に備え、外を歩くことに慣れさせておくようにという樋口フジの指示によるものであった。それまで「友達と遊ぶことなど知らなかったし、わかんなかった」、「遊びたい盛りだといわれても、私は遊んだことがないし、第一、遊ぶということはどういうことか、それすら知らなかった」ハルであったが、外出が許されたことで、同じ村の子供とも遊ぶようになった。その中で、ハルは自分が盲目であることを認識していくことになる。花を摘んで遊んだ時、他の子供が赤い花を選んで摘んでいたのに、色の識別ができないハルだけが他の色の花を混ぜて摘んだ。「ハルは目がみえないから色がわからない」という主旨のことを言われたが意味が理解できず、家に帰って母親に尋ねてところ、母親は声を出して泣き出した。母親はハルに色の概念を教え、盲目のハルには農作業ができず嫁にも行けないこと、三味線を覚え瞽女として生きて行く必要があると諭した。その声は震えていたが、当時のハルには母親が何を悲しんでいるのか理解できなかった。 新潟県では当時すでに盲教育が行われるようになっていたが、学齢期を迎えたハルが通学することはなかった。母親はハルを「お前は目が見えないから学校には行かれないのだ。学校で勉強するかわりにお前は、三味線や唄の稽古をすれば、学校に行った人と同じように生きていけるはずだ」と諭した。1908年(明治41年)11月、ハルは師匠の樋口フジと姉弟子2人とともに初めて巡業に出た。大叔父は「縁切り金をとられるようなことがあったら、お前は家の恥さらしだ。帰ってきても家には入れないからそう思え」と告げてハルを送り出した。出発前夜、母親はハルに次のように言い聞かせたという。 ハル、いいか、旅に出ることは、瞽女としての仕事に出ることだぞ、これから師匠を『お母さん』と呼んで一生懸命務めるのだ、手が冷たくていやだとか、どんなことがあっても家に帰りたいなんて、言ってはならんぞ。そんなことを言ったりしたら『縁切り金』をとられてしまうのだ。つらいときはじっと我慢して、神さま仏さまのお力を待つのだ。決して口ごたえなぞしてはならんぞ、お前は、言われたことを『はい、はい』と言って努めなければならんのだ。それがこれからの瞽女の仕事なのだ。 — 小林・川野2005、32頁。 ハルは実際に、フジからの様々な仕打ちに耐えなければならなかった。小柄なハルがフジの分を合わせて2人分の荷物を担ぐ姿に人が同情すると、「重そうに担ぐからだ。おらのせいだと思わせたいのか」と怒られ、ハルの唄が褒められると「そんなに褒められたいのなら、あの家の子になれ」と嫌味を言われた。食事の際、フジや姉弟子がおかずを食べても、ハルだけはご飯とみそ汁と漬物しか食べることが許されなかった。実家が宿泊代を出して旅行へ行った際も、フジはハルにはおかずを食べさせず、部屋へ持ち帰って自分の夜食にしてしまった。谷にかかった一本橋を渡る際には「落ちて死んでもいいぞ、死ねば、家の者が喜んで迎えに来るだろう」と言い放ち、ハルが祝儀を多く貰うと、褒めるどころか「これはどこからか盗んできたろう」、「お前みたいに唄の下手なものが、こんなに稼げるわけはない」などと難癖をつけ、杖で打ち据えた。八十里越と呼ばれる難所を越えて会津へ向かった際には、自分や姉弟子の荷物は人に運ばせてハルだけに荷物を運ばせ、「おまえはろくに唄もうたえないし、目だって見えない。そういう者は馬のかわりだ」と罵った。 フジのハルへの接し方について川野楠己は、瞽女の世界には組織の秩序を維持するための厳しい戒律と上下関係があるとしながらも、「平常心の持主なのかという疑いや怒りすら感じる」、「何かにつけて、家に追い返して、『この子は、瞽女として務まらないから』と『縁切り金』を出させる口実を探すのである」と評している。同様に下重暁子は、フジには「非をみつけ、実家から縁切り金をむしりとろうという魂胆があった」と、放送作家の本間章子は、「軟弱なハルの容貌では、すぐに音をあげる」と読んだフジは「『縁切り金』を当てにしていた」のであって、フジにとってハルは「金もうけの道具」に過ぎなかったと指摘する。ハル自身もフジについて、「無理な課題をいいつけては、いやだといえば家へ帰して金をとることばっかり考えている親方だった」と語っている。ハルが「おこり」と呼ばれる熱病にかかり、巡業についていくのもままならなくなったことがあった。姉弟子の一人はフジに「これでは商売にならない。家の人に迎えにきてもらったらどうだろうね」と進言したが、フジは「歩けるだけ歩かせて、勤まらないで迎えにきてもらうのはいいが、具合の悪いのを帰しても理由にならない。そうせば縁切り金だってとれない」と言って拒んだ。 ハルはフジについて、「間違ったことをしたらちゃんと教えてくれればいいものを、すぐ棒をもってはたかれたり、こわい音を出してどなられた」と回顧している。次のような出来事もあった。1911年(明治44年)夏に会津地方を従業中、ハルは宿泊先の農家でフジが教えていない唄を唄った。フジはそれが気に入らず、翌日別の村へ向かう途中でハルを山中に置き去りにした。山中で一夜を明かす羽目になったハルは一睡もできず大叔父から教わった真言を唱え続けた。翌朝、山へ入ってきた村人に発見されたハルは置き去りにされた理由が分からないままフジのもとへ連れて行かれた。村人とフジとの会話から理由を悟ったハルは土下座して謝りフジに教わっていない唄は二度と唄わないと誓いようやく許された。ハルはこの仕打ちを「私がいい気になってうたったからいけなかったのだろう」とする一方、「まだ旅の仕事をするようになって2年ぐらいしか経っていない10か11の小娘だもの、ものの道理がわかるはずがないのに、何の理由も告げずに山の中に置き去りにするのは、あまりにもひどすぎるお仕置だ」と振り、「自分が弟子を持つようになったときには、弟子には優しくしてやろう」と思うようになったと語っている。またこの一件以来、ハルは山の中に入るとまた置き去りにされるのではないかと怯えるようになった。 12歳の時に初潮を迎えると、生理痛に悩まされるようになった。ハルは元々頭痛もちであったが、生理痛が重なると症状が一層ひどくなった。また、この頃から夜這いの警戒をしなければならなくなった。ハルは膝を縛って寝たり、編み物をして眠らないようにするといった自衛策をとった。瞽女の世界には、万が一夜這いをされて子供ができるとコミュニティから追放される掟があった。入広瀬村では宿に忍び込んできた男に「用を足さないならおまえを殺す」と脅され、「それなら、殺してみろ!」とすごみ返して追い払ったことがある。男は腹いせに三味線を傷つけていった。年頃になると、ハルのもとには縁談が持ち込まれるようになったが、応じることはなかった。大きな理由のひとつは後述する局部の怪我だが、巡業中に夜這いの危険に晒されていた経験から男性に対し不信感を抱いていたことも影響していた。ただし後に弟子をとるようになると、弟子には結婚を勧めた。ハルは身持ちが固かったが、ハツジサワの弟子となって(後述)からつわりに似た症状に見舞われ、妊娠を疑われたことがある。産婦人科で妊娠していないという診断を得ても「医者が嘘を言っているのでは」と疑われ、「この人はそんなことをする人ではない。この人をいじめるとバチがあたる」という妙見菩薩のお告げを得てようやく信用された。
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