韓当
弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛され、征伐に従軍して駆けずりまわった。しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり捕虜を手に入れたりして、別部司馬になった。韓当は勤勉労苦を重ねて功績を立てたが、軍旅の従僕として英傑たちに囲まれていたため爵位を与えられず、別部司馬になれたのは孫堅時代の末期であった。 孫策が長江を渡って三郡(丹楊・呉郡・会稽)を討伐したとき、先登校尉に昇進して兵士二千人・騎馬五十匹を授けられた。劉勲征討に従軍して黄祖を撃破し、帰還してから鄱陽の賊徒を討伐した。楽安の県長を領すると山越どもは畏服した。 のちに中郎将として周瑜らとともに曹操を迎撃し、さらに呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍・領永昌太守に昇進した。宜都の戦役(夷陵役)では、陸遜・朱然らとともに涿郷で蜀軍に攻撃をかけて彼らを大破、威烈将軍に転任して都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南の一郭を守った。遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、心を一つにして固守し、目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた。 黄武二年(二二三)、石城侯に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領した。のちに都督の号を付加され、敢死兵・解煩兵(精鋭部隊)一万人を統率した。五年、丹楊の賊徒を討伐して彼らを撃破したが、ちょうどそのころ病気で卒去した。 本伝では黄武二年の記事に続けて韓当の死に言及しているが、その後文に「その年、孫権は石陽を征討をした」とあり、『呉主伝』と比べると黄武五年にあたることがわかる。 【参照】黄祖 / 朱然 / 周瑜 / 曹真 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 陸遜 / 劉勲 / 呂蒙 / 永昌郡 / 会稽郡 / 冠軍郡 / 宜都郡 / 呉郡 / 蜀 / 石城県 / 涿郷 / 丹楊郡 / 長江 / 南郡 / 鄱陽県 / 楽安県 / 遼西郡 / 令支県 / 威烈将軍 / 県長 / 侯 / 昭武将軍 / 先登校尉 / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 偏将軍 / 解煩兵 / 敢死兵 / 山越 / 督司(目付役) / 陪隷(従僕) |
韓当
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 06:24 UTC 版)
韓当 | |
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呉 昭武将軍・都督・石城侯 |
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出生 | 生年不明 幽州遼西郡令支県 |
死去 | 黄武5年(226年) |
拼音 | Hán Dāng |
字 | 義公 |
主君 | 孫堅→孫策→孫権 |
韓 当[1](かん とう)は、中国後漢末期から三国時代の武将。呉に仕えた。幽州遼西郡令支県の人。字は義公。子は韓綜。『三国志』呉志に伝がある。
生涯
弓術・馬術に優れ体力もあったため、孫堅に見出され部下に採り立てられた。『呉書』によると、危険を冒しつつ敵を破ったり、賊を捕虜にするなど活躍した。当時は従軍の身分に過ぎなかったという、英雄豪傑たちに功績を切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる。また孫策にも仕え、江東に出陣し三郡(会稽・丹陽・呉)の討伐に参加して先登校尉となった。兵士2千・騎馬50頭を与えられた。さらに孫策の劉勲討伐にも参加し、援軍の黄祖軍を破って、鄱陽郡の制圧にも同行、楽安県長となった。その後、山越は韓当の武勇に恐れをなし、従順な態度を取るようになったといわれる。『呉録』には、孫策が黄祖を討伐した時の上奏文が収録されており、行先登校尉であった韓当の名もその中に記されている[2]。孫策亡き後は孫権に仕えた。
建安13年(208年)、赤壁の戦いでは中郎将となり、周瑜や程普達と共に曹操軍を迎撃した。この戦いで、黄蓋が流れ矢にあたり水中に転落し、兵卒と間違えられ便所の側に放置されていたが、黄蓋が声を振り絞って韓当を呼んだため、韓当は黄蓋を保護し、涙を流して衣服を取り換えてやったという[3]。建安14年(209年)、陳蘭の援軍に赴いたが、曹操軍の臧覇に敗れた[4]。建安24年(219年)、呂蒙達と共に南郡攻略に参加し、これを奪取した。その功績で偏将軍まで昇り、永昌太守にも任命された[5]。
黄武元年(222年)、夷陵の戦いでは陸遜・朱然と共に劉備が指揮を執る蜀漢軍を迎え撃ち、涿郷で蜀軍を大破した。この功績により威烈将軍にうつり、都亭侯に封じられた。
同年、魏の曹真が南郡(江陵)に攻め寄せて来た時は(三方面での戦い)、城の東南部を守備した。この戦いで統帥として、将兵を励まし一致団結して守りを固め、また中央からの目付の意見にはよく従い、法令を遵守したので、孫権に信頼された。黄武2年(223年)、石城侯に封じられ、昭武将軍へ昇進した。また冠軍太守に任命され、都督の称号も与えられた。
後に敢死・解煩兵(呉軍の特殊部隊)一万人の指揮を執り、丹陽郡の賊を討伐し破った。それから間もなくして病気のため死去した。
三国志演義
小説『三国志演義』では、反董卓連合に参加した孫堅配下の4将軍の一人として、程普・黄蓋・祖茂と共に登場し、大刀を武器として奮う武人とし紹介される。孫堅が袁紹と仲違いした時は、程普・黄蓋と共に袁紹軍の顔良・文醜と睨み合いをしている。孫堅が劉表を攻撃し戦死する直前の場面では、凶兆が出ていることを孫堅に伝えている。その後も孫策・孫権の配下として活躍し、後に周泰とペアで行動することが多く、赤壁の戦いの緒戦では、旧袁紹軍の降将で構成された曹操軍の先鋒隊を、周泰と共に迎撃し焦触を討ち取っている。また苦肉の策を成功させた黄蓋が、敵の矢を受け河に落ちていたところを助けている。周泰と共に迎撃し文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪との一騎討ちで勝利した。濡須口の戦いにおいては、周泰と共に許褚を迎撃し、許褚は辛くも曹操を救い出した。夷陵の戦いにおいては、孫氏三代に仕えた将軍として、周泰達と共に陸遜の指揮に不満を漏らすが、陸遜に戒められている(史実では、不満を漏らした人物の名は不詳である)。
子
韓綜-父の死後、韓綜が爵位を継承した。黄武5年(226年)、孫権は石陽に軍を進めたが、韓綜は父親の喪に服しているということで、武昌に留まって守りにあたらせた。しかるに韓綜は、淫乱にふけり無法を働いた。孫権は、韓当に免じてそれをとがめなかったのであるが、韓綜は内心、懼れをいだき、黄武6年(227年)閏12月に韓当の棺を持って、母親や家族、それに部曲など、男女数千人を引きつれて、魏に逃げ込んだ。魏の将軍となった韓綜はしばしば辺境を犯し、呉の平民を殺害した。孫権は彼が攻めてくると聞くといつも悔しがっていた。
建興元年(252年)、東興の戦いでは韓綜は前軍督として魏の先鋒となったが、戦いに敗れて命を落とした。諸葛恪が彼の首を斬って都に送り、孫権の廟にそのことを報告した。
脚注
- ^ 繁体字表記では「韓 當」。
- ^ 『三国志』孫破虜討逆伝
- ^ 『三国志』黄蓋伝引『呉書』
- ^ 『三国志』臧覇伝
- ^ 赤壁の戦いの直後にも呉は南郡攻略しているが、この時の主将は周瑜であり、この時に「呂蒙達と共に」という表現はおかしい。また、赤壁の戦いで最大級の活躍をした黄蓋は赤壁戦後に武鋒中郎将に任命されているが、その黄蓋を差し置いて、黄蓋とさして位が変わらない韓当がさしたる戦功もなく、当時の周瑜と同格の偏将軍に出世するのは違和感がある。また、永昌太守は遥任であるが、呉が荊州を奪取した時に周泰も遥任で漢中太守に任じられており、韓当が遥任で永昌太守に任じられたのと同時期であるとみるのが自然である。よって、韓当が参加して功績をあげた南郡攻略は、韓当が陳蘭の救援で揚州方面に出払っていて不在と思われる209年の周瑜主導の時ではなく、219年の呂蒙主導の時とみるのが妥当であろう。
参考文献
韓当(かんとう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「韓当(かんとう)」の解説
孫家三代に仕える古参の将。夷陵の戦いで蜀軍の重圧に耐える陸遜を、大ベテランとして様々に後援する。
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