開発に至るまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:54 UTC 版)
「三式潜航輸送艇」の記事における「開発に至るまでの経緯」の解説
陸軍における独自の輸送艇の構想は、1942年(昭和17年)3月ごろには陸軍参謀本部の船舶・運輸関連部門の佐官の間にて立案されており、「貨物輸送艇」としての設計・研究が行われていたとされるが、潜水艦を輸送艇とするより具体的な計画は太平洋戦争中の南東方面戦線(ガダルカナル島攻防戦、ニューギニア攻防戦)において、日本陸軍が補給に苦しんだことをきっかけに立案された。陸軍がこのような船種を単独で開発する事となった経緯には、同年9月のラバウル方面を議題とした兵棋演習の席上、モグラ輸送で第六艦隊隷下の伊号潜水艦に多大な損害を受けた日本海軍が、伊号潜水艦は輸送の任から外して本来任務の艦隊攻撃に専念したい事、輸送任務には新たに輸送用の波号潜水艦を陸軍に提供する事で代替とするが、輸送に従事する兵員は操艦要員も含めて全て陸軍からの供出を要求する提案を出した事が背景にあるとされる。同年12月、陸軍参謀本部はこの提案の検討の結果、実際の輸送潜水艦運用の権限が海軍に握られる恐れのある「波号潜水艦に陸軍船舶兵を供出する海軍案」を一蹴し、独自に潜水艦を一から建造する事を決断したという。 ガダルカナル島の戦いでは、第三次ソロモン海戦において日本軍の輸送船団が壊滅し、高速の駆逐艦を利用した輸送部隊(鼠輸送)さえ空襲と連合軍水上部隊の邀撃により完遂できず(例、ルンガ沖夜戦)、ガダルカナル島の日本陸軍に対し食料弾薬の十分な補給ができなかった。また当時の連合軍の反攻作戦は、まず制空権を奪取して目標の島嶼を攻略、そこに航空基地を建設して制空権を完全に確保し、さらに次の目標を目指すという方法をとっていた。南東方面の日本陸海軍航空戦力では、航空機の性能・数量ともに連合軍に対抗できなくなっており、ひきつづき敵制空権下での輸送が予想された。ガ島戦敗北により、大本営陸軍部は敵制空権下においては通常の船団輸送が不可能であることを認識した。 1943年(昭和18年)1月25日、南東方面を視察した大本営陸軍部第十課長(船舶)長荒尾興大佐は南東方面船舶輸送について報告をおこなう。「海洋の陣地戦」として船舶輸送体系の改革を提言し、以下の項目を列挙した。 (1)作戦正面をできる限り縮小する (2)船舶輸送体系として大型船、中型船、小型船の三運航区域に区分しこれに適当な船舶を配当する。 (3)大発動艇、高速艇、輸送用潜水艦等の舟艇を陸軍自力で大量かつ迅速に整備する。 同年2月20日、第八方面軍司令官今村均陸軍中将はトラック泊地の戦艦大和(連合艦隊旗艦)を訪問し、連合艦隊司令部(司令長官山本五十六大将、参謀長宇垣纏中将、先任参謀黒島亀人大佐)と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談した。敵制空権下での船舶輸送は困難を極めるため、第八方面軍は海軍の潜水艦による補給輸送を依頼した。山本を含めた連合艦隊の反応は、今村の報告によれば「我ガ申入レニ対シ海軍側ニ於テハ努メテ輸送船運用ニ依リタキ意向ヲ力説セリ」「補給持続ノ根本対策トシテ特殊潜水船ノ必要スレバ老齢ノ潜水艦ノ改造等ニ関シ述ベタル所、海軍側ニ於テモ其ノ必要ヲ認メ研究中ニテ明日年中ニ12、3隻ノ特種潜水艦ヲ建造スル筈ナルモ潜水艦ノ数上目下ハ老廃ニ近キモノモ之ヲ作戦ニ運用シアリテ改造スル等ノ余裕ノ如キハナシトノ答ヘナリ」であった。結局のところ、海軍(連合艦隊、南東方面艦隊)と第八方面軍の関係は険悪で、信頼関係は築けていなかった。このころ今村司令官は「補給さえうまく行けば当面の作戦は成功する。補給の不可能がすべて失敗の原因なので海軍艦艇、潜水艦をもってする補給を是非考えねばならない」と熱心に主張していたので、海軍側は「作戦失敗の原因をすべて海軍に帰せんとする魂胆であろう」と見ていたという。 同年3月3日、ラバウルから東部ニューギニアへむかっていた日本軍輸送船団が全滅したビスマルク海海戦は、大本営陸海軍部に甚大なる衝撃を与えた。3月中旬に大本営が決裁した「南東方面作戦に関する両部申合覚」の中には「三 敵航空機ノ攻撃威力圏内ニ対スル補給ハ将来ニ亙リ戦局ヲ左右スル重大要素タルヲ以テ速ニ具体的方策ヲ確立シ之カ実現ノ為各種施策ヲ促進スルト共ニ所要ノ資材ヲ整備ス」という項目があった。「補給が作戦であり、輸送が決戦である」という状況下、大本営は4月5日の兵站会議で補給戦の現状を開陳し、この中で「ガ島と同様に北方や南西方面でもB-17により大型船輸送が困難になりつつあり、船舶課では小型舟艇輸送の計画を検討し、また陸軍自体で輸送用潜水艦を造ることを研究中である。」と触れた。上記情勢下、大本営陸軍部の第三部(運輸通信長官部)は、陸軍自ら輸送用潜水艦の制作に乗り出しており、4月になって海軍に計画を打ち明け、了解と援助を得ることに成功した。大本営課長会議で披露された輸送用潜水艦「イ号特種艇」の性能は、以下のようなものであった。 浮上屯数 - 100屯 搭載量 - 人員10名または軍需品60立方米 速力 - 水上10ノット、水中5ノット 航続距離 - 1,000浬、航続時間10時間 制作と試作は陸軍運輸部と陸軍第七技術研究所が担当し、航空機に次ぐ優先度を与えられ、1943年度中に200隻の建造を目指した。資源・技術・教育でも海軍との協調が必要であり、また鋼材の配当という点では陸軍部内での摩擦も予想された。4月17日、陸軍輸送潜水艦は兵器行政本部の担当となり、東條英機陸軍大臣が決裁した。
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