開発に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:27 UTC 版)
現在万代シテイがある萬代橋東詰一帯の萬代橋通り・東港線沿いの新潟市流作場(現在の中央区万代・弁天・八千代周辺)にはかつて、新潟交通の本社をはじめ車庫や車両整備工場、天然ガス井等があり、同社バス事業の要衝となっていた。1951年2月には現在の新潟テレコムビルの位置に「新潟交通バスステーションビル」(にいがたこうつうバスステーションビル、通称:バスビル)が竣工。県内では初の本格的なバスターミナルだった。バスビルからは主に郊外各方面への路線バスが発着していた。 しかしこれら新潟交通の施設群は、まず1950年代後半から新潟市内の地盤沈下が著しく進行したことにより天然ガスの採掘が制限されたため、天然ガス関連の施設縮小を余儀なくされた。更に1964年6月16日に発生した新潟地震では甚大な被害を受けた。特にバス事業においては車両基地の機能がこの流作場に集中して設けられていたことが原因で震災後の復旧に時間を要したことから、その機能を郊外に分散して設ける方針が採られることとなり、1960年代後半から近郊の各地に出張所(現在の営業所にあたる)や車庫を整備した上で規模を順次縮小した。また施設そのものも地震で被災したのに加えて老朽化等によって手狭となり、車両の大型化に対応し切れなくなる等して機能が低下しつつあった。しかし新潟駅に程近く、市の元々の中心街である古町との中間点にあたるという恵まれた立地条件もあって、余剰となった社用地の利用法の検討が行われた。
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開発に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 17:24 UTC 版)
林業において山奥から材木を搬出する手段としては、古くは牛などの畜力による牽引や、傾斜を利用した滑落、筏を組んでの川流しなどが利用されていた。明治時代後期以降はより効率に優れる森林鉄道も敷設されるようになったが、昭和時代に入ると自動車が普及し、これを活用しての林業輸送が試みられるようになる。 しかし、急傾斜の続く山岳地帯の狭隘な林道は、自動車での走行に困難を来すほど屈曲していることが多く、十分な道路整備もままならない昭和時代前期から中期にかけては、木材輸送にトラックを活用できる領域は限られていた。 太平洋戦争以前から、日本では小回りの利くオート三輪トラックが普及しつつあったが、それらは免許や税制面で有利な排気量750cc以下の小型車ばかりであった。終戦後になると、戦前以来の大手オート三輪メーカーに加えて、航空機メーカーを中心とした新規参入メーカーが出現したことで、メーカー間競争が激しくなったが、終戦直後の時点ではオート三輪のサイズは750kgから1t積み、排気量も750ccから1000cc未満に限られており、大型化の傾向はあったものの、1950年代前半のような「大型化競争」はまだ本格化していなかった。この時点で、長い材木を積めるほど大きな荷台を持つオート三輪は、一般メーカーの製品には出現していなかったのである。 一方、戦後の林業界は、戦時中の乱伐や人手不足による手入れの不備で山が荒れる事態に直面してはいたが、国内材への需要自体は引き続き存在しており、伐り出した木材を山から効率よく輸送する手段が求められていた。山がちな地形と温暖な気候とによって林業が盛んな四国地方でも、木材輸送の良策が求められていたのは他の地域と同じであった。 当時の日本では既に、大型トラックの国内量産体制が戦時中の軍用車量産需要によって確立されており、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)やトヨタ、日産といった大手自動車メーカーが、4tから5t積みの大型四輪トラックを量産するようになっていた(多くは後輪がダブルタイヤとされ、重量物積載に対応していた)。だが、大型四輪トラックはパワーや輸送力には富むものの、極端な狭隘路では小回りが利きにくく、通過が困難という問題を抱えていた。
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