郡の成立以降
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「コンコルディア郡 (ルイジアナ州)」の記事における「郡の成立以降」の解説
コンコルディアという郡名はラテン語の「調和」を意味している。 南北戦争の間。コンコルディア郡は頑強に南軍を支持した。歴史家のジョン・D・ウィンターズはその著書『ルイジアナにおける南北戦争』(1863年)で、コンコルディアを「プランテーションが支配的な郡、(1862年)3月初旬に南軍に対する異常な愛国心を示した。戦中に結成された3個中隊に仕官した者はだれでも100ドルの報奨金が支給された。隣接するカタホウラ郡で結成された2個中隊のどちらかに加わった者には報奨金50ドルが支払われた。この報奨金のために5万ドルの資金を手当てする案が住民投票に掛けられ、...志願兵の家族の救済のためには4万ドルが手当てされた。」と記している。 北軍がこの地域を解放すると、郡内のプランテーションは黒人労働者を雇用することに関する「お役所仕事」に影響された。土地の賃借人も所有者も労働に関する規制が実行できないものであることがわかった。
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郡の成立以降
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「ウェストキャロル郡 (ルイジアナ州)」の記事における「郡の成立以降」の解説
ワシタ郡のヨーロッパ系アメリカ人人口が増え続けると、この地域はより小さな郡に分割された。1832年、州議会によってワシタ郡からキャロル郡が分離した。郡庁所在地はミシシッピ川岸のレイクプロビデンスに置かれた。19世紀前半を通じてキャロル郡西部のヨーロッパ系アメリカ人人口が増え続けた。その経済はおもに綿花の栽培と製材業に拠っていた。1855年には人口が増加して、バイユー・メイコンの西のフロイドに郡庁所在地を住民投票で動かせるほどになった。バイユー・メイコンを蒸気船が運航できたので、地域は繁栄する交易拠点になった。1856年、新しい郡庁舎の建設が始まり、1857年遅くには完成した。 郡庁所在地を動かしたことで、多くの専門職や交易業者がフロイドに集まるようになり、町は急速に成長した。ホテル、郵便局、雑貨店、酒場のある典型的なフロンティアの町になった。 1861年1月、ルイジアナ州議会が合衆国からの脱退を決め、自身自由かつ主権を持った国であると宣言した。2か月足らず後にはアメリカ連合国に加盟した。歴史家フロレンス・マッコイの著作『川の間で』に拠れば、これはウェストキャロル郡を造ることになる分離だったとされている。 アメリカ連合国の旗がフロイドの郡庁舎に翻ったとき、ほぼ全員に祝われたが、川向こうの地区ではそうでもなかった。東側の農園主はその良心に信念が無いかその資産を救おうという考えで、アメリカ合衆国に対する忠誠の誓いに署名し、南部のためにその命まで進んで捧げようという隣人との間には亀裂を生じた。彼等は、宣誓書に署名した隣人に対し大変な憤りを感じていた。 この地域では南北戦争に関わる戦闘はほとんど無かった。これはミズーリ州で主に活動したクアントリル・ギャングのような暴徒の行動に帰する歴史家もいる。また地域の孤立した地形とフロイドを取り囲む広大な湿地も重要な要素だった。フランク・ジェイムズは1863年から1864年の冬にテキサスへの行き帰りで、クアントリルと共にここを通過したと言われている。1870年代初期、フランクとその弟ジェシー・ジェイムズはミズーリ州からテキサス州にかけての銀行を襲い、この地域で時を過ごしたとされている。 レコンストラクション時代、地元指導者は連邦政府が指名した州政府によって任命された役人に反対した。解放奴隷の権利に関する規程に反対した者もいた。1870年代、白人同盟の支部がルイジアナ州中で結成され、武装集団が共和党員を脅し、解放奴隷による投票を阻止し、白人民主党が州議会で権力を取り戻すことを支援した。 1877年3月、連邦軍が州内から引き上げた。白人民主党が州議会を制した直ぐ後に、ウェストキャロル郡の創設を承認した。当初の人口は白人黒人あわせて800人、200家族だった。綿花と材木がこの新郡の生命線だったが、19世紀後期から20世紀初期にかけて農業に依存するこの地域は経済的な困難さに直面した。郡内には10台のコットンジン、3か所の製材所があり、蒸気船はバイユー・メイコンを航行し続け、交通の中心であった。 ビーフ川とメイコン川の蒸気船運航は南部中に建設された鉄道との競合で衰退した。鉄道と共に南北に走る道路(州道17号線)沿いの町が発展を始めた。パイオニア、フォレスト、オークグローブ、キルボーンの町だった。郡庁所在地に近く大きな製材所のあったパイオニアが急速に成長した。
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郡の成立以降
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「マディソン郡 (ルイジアナ州)」の記事における「郡の成立以降」の解説
マディソン郡はアメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンに因んで郡名が付けられた。郡庁舎はマディソンに敬意を表してコロニアル・バージニア様式で建てられたが、州内の多くの町と同様、中心街の中央に建てられた。東に向いている。近くに市役所があり、こちらは南を向いている。 南北戦争のとき、マディソン郡は裕福な綿花栽培地域であり、戦争初期に多くの男を戦場に送った。1862年、南軍の中隊に加わる者には誰でも80ドルを支払った。州知事のトマス・オバートン・ムーアは、ニューオーリンズ陥落に対応して、北軍に接収されないように地域の綿花全ての焼却を命じた。農園主達が寂しく見守る前で、数十万ドルに相当する綿花が燃やされた。ムーア知事はルイジアナ州北東部で第11旅団を指揮するR・B・トッド准将に、その民兵隊と、徴兵されていなかった18歳から40歳までの全ての男性を招集するよう求めた。マディソン郡、キャロル郡およびテンサス郡のそれら男性は南軍指導部と協働して地域への北軍の攻撃を撃退するものとされた。 南北戦争が終局に向かうころ、マディソン郡は北軍に同調的なゲリラ部隊の問題に直面した。歴史家のウィンターズに拠れば、かれらは「地域の通り抜けできないようなサトウキビや糸杉の湿地に隠れた。徴兵忌避者、脱走兵、逃亡奴隷で構成されており、道を過ぎる誰でもから金品を奪い、殺しあるいは捕まえた」としている。南軍は北軍の制服を着てゲリラを騙した。ウィンターズは「無法集団の指導者は大きな黒人で、北軍の兵士と思われる者を歓迎した。突然南軍の偽装兵がギャングに襲いかかり、彼等を殺し始めた。素早い血塗られた闘争の中で南軍は集団の130人を殺した。ここから逃げ出した者は、二度と地域を荒らすために戻ってくることは無かった」と記している。 セビア家が1世紀以上もマディソン郡の政治を支配した。セビアはアメリカ独立戦争の戦士でテネシー州知事を務め、東テネシー州のセビア郡やセビアビルの名前のもとになったジョン・セビアの子孫を主張した。政治家となったセビア家の一員の中には、1932年から1962年に死亡するまでルイジアナ州上院議員を務めたアンドリュー・L・セビア、1932年から1952年までルイジアナ州下院議員を務めたヘンリー・クレイ・"ハッピー"・セビア・シニアがいた。ウィリアム・パットナム・"バック"・セビア・ジュニアは銀行家、町会議員、さらに1936年から1974年に引退するまでタルラ市長だった。アンドリュー・ジャクソン・セビア・ジュニアは1904年から1942年に死ぬまで郡保安官だった。その死後短期間はセビアの妻が保安官を継いだ。 マディソン郡はアフリカ系アメリカ人人口が多いので、民主党の強い地盤であり続けている。2008年の大統領選挙では、民主党候補、イリノイ州のバラク・オバマ上院議員が3,100票、58.5%を得てマディソン郡を制し、対する共和党候補、アリゾナ州のジョン・マケイン上院議員は2,152票、40.6%だった。
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