郡の変遷史とは? わかりやすく解説

郡の変遷史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 01:05 UTC 版)

備後国」の記事における「郡の変遷史」の解説

律書残篇延喜式はともに14郡とする。これ以前に、甲奴郡が葦田郡から、深津郡安那郡から分かれているので、もとは12郡であると思われる鎌倉時代中期成立と見られる拾芥抄』は吉刀郡を加え十五郡を載せる1898年明治31年4月1日御調郡尾道町市制施行する御調郡から離れて尾道市となる。14郡1市となる。 1898年明治31年10月1日郡制施行のため9郡を廃し、4郡を置く。9郡1市となる。

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郡の変遷史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:11 UTC 版)

美作国」の記事における「郡の変遷史」の解説

和銅6年713年4月3日に、備前国から英多郡勝田郡苫田郡久米郡真嶋郡大庭郡の6郡を分けて美作国設けられる貞観5年863年5月苫田郡東西分け苫東郡苫西郡とする。 承平年間931年 - 938年編纂和名類聚抄では英多、勝田苫田(東)、苫田西、久米大庭真島の七郡が記される鎌倉時代中期成立と見られる拾芥抄では、英多、吉野勝田東、西、北、南、用野、久米大庭真嶋十一郡が記される中世苫東郡苫西郡苫北郡苫南郡それぞれ東南条・西西条東北条・西北条と呼ばれ始める。久米郡戦国時代には久米北条南条(または久米北郷南郷)と分けて扱われていた。 慶長年間1600 - 1602年)、小早川家治世に、慣習的に用いられていた東北条・東南条・西北条・西西条、勝南・勝北などが正式に郡名とされた、という。 慶長8年1603年)、森氏入国時、英田吉野・大庭・真島・勝南・勝北東北条・東南条・西北条・西西条久米南条・久米北条十二郡制 寛文元年1661年)、郡名改称勝南郡勝田南郡勝北郡勝田北郡東北条郡苫北郡東南条郡苫東郡西北条郡苫南郡西西条郡苫西郡久米南条郡久米南郡久米北条郡久米北郡とする。 天和2年1682年)、幕府の命により十郡制改編久米南郡久米北郡合わせて久米郡,勝田南郡勝田北郡合わせて勝田郡とした。ただし、実際に久米郡南分・同北分勝田郡南分・同北分呼称使われた。 元禄11年1698年)、代官らの訴えにより、寛文年間以前の郡数・郡名に戻す。苫北郡東北条郡苫東郡東南条郡苫南郡西北条郡苫西郡西西条郡になり、久米郡久米北条郡久米南条郡に、勝田郡勝南郡勝北郡分割明治33年1900年)、英田郡吉野郡合併して英田郡に、勝南郡勝北郡合併して勝田郡に、東北条郡東南条郡西西条郡西北条郡合併して苫田郡に、久米南条郡久米北条郡合併して久米郡に、真島郡大庭郡合併して真庭郡となる。

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