郡の変遷史
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律書残篇、延喜式はともに14郡とする。これ以前に、甲奴郡が葦田郡から、深津郡が安那郡から分かれているので、もとは12郡であると思われる。 鎌倉時代中期成立と見られる『拾芥抄』は吉刀郡を加え十五郡を載せる。 1898年(明治31年)4月1日、御調郡尾道町に市制を施行する。御調郡から離れて尾道市となる。14郡1市となる。 1898年(明治31年)10月1日、郡制施行のため9郡を廃し、4郡を置く。9郡1市となる。
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郡の変遷史
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和銅6年(713年)4月3日に、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の6郡を分けて美作国が設けられる。 貞観5年(863年)5月、苫田郡を東西に分け、苫東郡・苫西郡とする。 承平年間(931年 - 938年)編纂の和名類聚抄では英多、勝田、苫田(東)、苫田西、久米、大庭、真島の七郡が記される。 鎌倉時代中期成立と見られる拾芥抄では、英多、吉野、勝田、苫東、苫西、苫北、苫南、用野、久米、大庭、真嶋の十一郡が記される。 中世に苫東郡、苫西郡、苫北郡、苫南郡がそれぞれ東南条・西西条・東北条・西北条と呼ばれ始める。久米郡も戦国時代には久米北条・南条(または久米北郷・南郷)と分けて扱われていた。 慶長年間(1600 - 1602年)、小早川家の治世に、慣習的に用いられていた東北条・東南条・西北条・西西条、勝南・勝北などが正式に郡名とされた、という。 慶長8年(1603年)、森氏の入国時、英田・吉野・大庭・真島・勝南・勝北・東北条・東南条・西北条・西西条・久米南条・久米北条の十二郡制 寛文元年(1661年)、郡名改称。勝南郡を勝田南郡、勝北郡を勝田北郡、東北条郡を苫北郡、東南条郡を苫東郡、西北条郡を苫南郡、西西条郡を苫西郡、久米南条郡を久米南郡、久米北条郡を久米北郡とする。 天和2年(1682年)、幕府の命により十郡制へ改編。久米南郡と久米北郡を合わせて久米郡,勝田南郡と勝田北郡を合わせて勝田郡とした。ただし、実際には久米郡南分・同北分、勝田郡南分・同北分の呼称が使われた。 元禄11年(1698年)、代官らの訴えにより、寛文年間以前の郡数・郡名に戻す。苫北郡が東北条郡、苫東郡が東南条郡、苫南郡が西北条郡、苫西郡が西西条郡になり、久米郡は久米北条郡・久米南条郡に、勝田郡は勝南郡・勝北郡に分割。 明治33年(1900年)、英田郡と吉野郡が合併して英田郡に、勝南郡と勝北郡が合併して勝田郡に、東北条郡・東南条郡・西西条郡・西北条郡が合併して苫田郡に、久米南条郡と久米北条郡が合併して久米郡に、真島郡と大庭郡が合併して真庭郡となる。
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