郡の前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 08:49 UTC 版)
郡の西部は主にイーゼンブルク伯領、東部は主にマインツ選帝侯領に属した。マインツ領は、それ以前はエップシュタイン家やハーゲン=ミュンツェンベルク家に属していた。さらにそれ以前は、ランゲン付近を除く全域がフランク人のマインガウに属していた。現在の郡域にあたる地域の、神聖ローマ帝国時代の他の領主としては以下のものがある: ランゲン、エーゲルスバッハおよびディーツェンバッハはヘッセン=ダルムシュタット方伯、ドゥーデンホーフェンはハーナウ伯の継承者であるヘッセン=カッセル方伯、ホイゼンシュタム、オーベルツハウゼン、ハウゼンおよびグラーヴェンブルーフがシェーンボルン伯、ヴィルトホーフとその周辺の森はドイツ騎士団、メッセンハウゼンはフランケンシュタイン家に属した。 1803年のマインツ大司教領の世俗化以後、この領域はヘッセン大公国に引き継がれたが、こうした旧領邦がアムトとして残された。1820年12月17日のヘッセン大公国憲法の公布後、1821年7月14日に大規模な行政改革が行われた。これにより、伝統的なアムトに替わってラントラーツベツィルクが設けられた。後にオッフェンバッハ郡となる地域はシュタルケンブルク州の以下の郡に分かれていた。 ラントラーツベツィルク・ランゲン: ギンスハイム、ナウハイムおよびツェント・アルハイリゲンを除く旧アムト・ケルスターバッハ。旧アムト・ディーブルクのオーバー=ローデンおよびニーダー=ローデン。旧アムト・シャーフハイムのディーツェンバッハ。 ラントラーツベツィルク・オッフェンバッハ: 旧イーゼンブルク伯領のビュルゲル、ドライアイヒェンハイン、ゲッツェンハイン、ミュンスター、ノイ=イーゼンブルク、オッフェンタール、フィリップスアイヒ、シュプレンドリンゲン、ウルベーラハ、グラーヴェンブルーフ、ゲーシュピッツ、ノイホーフ、ヴィルトホーフおよびオッフェンバッハの森とドライアイヒの森。これによりラントラーツベツィルク・オッフェンバッハは1828年までラントラーツベツィルク・ランゲンを2つの地区に分離していた。 ラントラーツベツィルク・ゼーリゲンシュタット: 世俗化されたマインツ選帝侯領のマイン川左岸領域の他、1736年までハーナウ領でその後ヘッセン=ダルムシュタット方伯領とヘッセン=カッセル方伯領とに分割されていたアムト・バーベンハウゼンの大部分が含まれた。ゼーリゲンシュタットの本来の背後地であるマイン川右岸の教団領は、1803年にアシャッフェンブルク侯領およびフランクフルト大公領となり、1814年にバイエルン王国領となった。
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