郡の中心として発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 07:16 UTC 版)
「白子町 (三重県)」の記事における「郡の中心として発展」の解説
1897年(明治30年)、白子町型紙紙業組合が結成され5年後には白子町立型紙工業徒弟学校が開校するなど、伊勢型紙が町の基幹産業として位置付けられるようになる。伊勢型紙は江戸時代に紀州藩による庇護を受けて発達した白子の伝統工芸であるが、一時期寂れ、紡績業界の産業革命と京都で型友禅が発明されたことで復活したものである。最盛期を迎えた関東大震災後には当時の小学校教員の1か月の給与が50円だったのに対し、良質の型紙を生産した職人は300円だったという。安政の大地震で堤防を破壊されて衰退した白子港の改修工事が1905年(明治38年)に、白子町耕地整理組合による耕地整理事業が1915年(大正4年)に完了、第一次産業の基盤も整った。町民の生活については、1910年(明治43年)に電灯が灯り、1915年(大正4年)の伊勢軽便鉄道による白子 - 高田本山(現・津市)間が開通し交通の便が良くなった。元より白子町には郡役所が置かれ、郡の中心として賑わってきたが、1920年(大正9年)には時の郡長・片岡宇太郎の働きかけで白子町外21か村組合立高等女学校(現・三重県立白子高等学校)が開校、白子の地位が高まっていった。
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