赤字予算、ドルおよび貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:49 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「赤字予算、ドルおよび貿易」の解説
1983年に始まった経済回復に続いて、レーガノミクスの中期的財政効果として、社会保障歳出の増大と軍事予算増大と減税のために歳出が常に歳入を上回り赤字を増やし続けた。税収は1970年代後半や1980年代初期に停滞していたことと比べれば増加していたが、急上昇する支出には及ばなかった。 アメリカ合衆国の歴史で最大となった1981年減税は、GDPの増大と比較して連邦政府の税収増大は少なかった。 アメリカ合衆国の財政赤字は、1980年の909,041Millions$から1988年には2,601,104Millions$に増大し、GDPに対する財政赤字は1980年の33.4%から1988年は51.9%に増大した。 赤字予算は経済刺激策としての価値があり、1982年以降のレーガン政権時代で景気回復に貢献したが、1980年代予算不足のその規模は金利を高止まりさせ、ドルの価値を過大評価のままとしたので、投資や輸出の面で苦しみ、結果的にアメリカの経常収支赤字を増大させた。 アメリカ合衆国の預金率は大変低かった(日本のそれのおよそ3分の1)ので、赤字は海外からの借金で補われ、数年間でアメリカ合衆国を世界最大の債権国から世界最大の債務国に転落させた。このことはアメリカの威信を傷つけただけでなく、アメリカ資本の輸出に頼ってきた戦後の国際金融システムに大きな変化も起こった。さらに1980年代にメディアや娯楽産業が株式市場や金融分野の魅力を伝えており(例えば1987年の映画『ウォール街』)、若者は製造分野ではなくブローカー、投資家および銀行家としてのキャリアを追求したので、失われた工業基盤が直ぐに回復することは無いと思わせるようになった。 赤字は金利を高止まりさせ、レーガン政権時代の通貨引き締め政策の中断のために初期の20%よりは低かったものの、依然として高くまた高くなる恐れがあった。連邦政府は多額の金を借りることを強いられたので、借入利子を押し上げていた。供給重視政策で高金利と法人税削減により投資が増加すると見ていたが、高金利の中では成長と投資が難しかった。1987年10月、突然株式市場が暴落した。しかし、連邦準備制度は通貨供給量を拡大することで応じ、世界恐慌の再来を回避した。 おそらくもっと危険だったのはレーガン時代の赤字で米ドルを過大評価のままにしていたことだった。ドルに対する高い需要があり(政府借款の大きな手段)、ドルは他の主要国通貨に対して過剰に強くなっていた。ドルが強くなるにつれて、アメリカの輸出品は急速に競争力を失い、代わって日本が最大の利益享受者になった。ドルが高いために外国人はアメリカ製品を買うことが難しく、アメリカ人に輸入品を買うことを奨励した。工業製品輸出部門にとっては米ドルが高すぎる価値になった。鉄鋼やその他重工業は労働組合から過剰な要求を受けたうえに日本の輸出品とは競合できないようにその技術が時代遅れになっていたので衰退した。家電産業(1970年代に衰退が始まっていた)はダンピングなど日本の不公平な貿易慣習の餌食になった。アメリカの家電製品も品質が悪く、日本の製品に比較して技術的な革新にも欠けていた。これは冷戦によって消費者向け製品よりも防衛産業の方にアメリカの科学と技術が向けられていたことが一つの理由だった。この10年間が終わるまでにアメリカの家電産業は事実上の存在を止めた。1980年代アメリカの技術の良い面としては新興のコンピュータ産業が急成長したことだった。 アメリカ合衆国の貿易収支は次第に赤字の程度が増大した。赤字額は1980年の-131億ドルから1987年には-1,452億ドルに増大した。自動車や鉄鋼のようなアメリカ産業は海外とさらには国内市場でも新たな競合の時代に入った。レーガン政権で日本のメーカーに自発的な輸出制限を設定させ(年130万台の販売とした)、輸入トラックには25%の関税(乗用車は3%)を課したことで、アメリカの自動車産業は一息つくことになった。日本のメーカーはこれに対処するためにアメリカ国内に組立工場を設け、そうすることでアメリカ人に職を提供していると言うことも可能にした。自発的な輸出制限は自動車の販売が好調になった1985年以降に撤廃されたが、関税率は今日でも有効である。企業平均燃料節約規制が行われたことで、1980年代は小さな車が主流になり、家電製品の場合と同様に日本のメーカーは品質と技術的な洗練さでアメリカ製品を凌ぐようになった。 巨額の赤字はリンドン・ジョンソンがベトナム戦争と偉大なる社会で軍事と経済の両立政策を進め、戦後の再建が進んだG7諸国との競合が激しくなったことから持ち越された負の遺産だったが、赤字を拡大させる道を選んだのはレーガン政権だった。 レーガンが執務中に「政権の空白状態」があり、大統領の注意力が長く継続しないという告発があったが、これはおそらく党派的な攻撃では全くなかった。財務の保守派や民主党は赤字の拡大や、時には防衛費の監督不足についてレーガンを批判した。1985年1月、著名な保守派コラムニストのウィリアム・サファイアは、1980年の共和党大統領候補指名レースのときにジョージ・H・W・ブッシュがレーガンは「ブードゥー経済学」を提唱していると批判したことに触れ、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の記事で、「レーガノミクスはブードゥーに悪名を与えている」と述べ、さらに「アメリカ合衆国は外国人に対する金融市場の統制力を失った」と付け加えた。 レーガンはその任期中に3人の最高裁判所判事を指名した。1人目は1981年の中道派のサンドラ・デイ・オコナーであり、最高裁判所判事としては最初の女性だった。2人目は1986年の保守派アントニン・スカリアだった。1987年に3人目を選ぶ時は論争になった。まず選んだのはダグラス・ギンスバーグだったが、学生時代にマリファナを使ったことを認め、指名を辞退した。次に選んだロバート・ボークは、エドワード・ケネディ上院議員やリベラルの活動家達から、堕胎を違法化し公民権法をないがしろにしようとしていると攻撃されて、これも辞退した。最後は中道派のアンソニー・ケネディに落ち着いた。スカリアとケネディは2010年時点で判事職に留まっており、オコナーだけが2006年に辞任した。
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