誕生~1960年代
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1935年(昭和10年)、大阪府生まれ。小学4年生の時に原爆による終戦を受けて大きなショックをおぼえ、人間の精神的な部分にまで入り込むテクノロジーに衝撃を受けた。この経験が後年、ヨシダが核保持国の芸術家としての使命を意識し、原爆や戦争を意識下に感じさせる作品を制作するようになる原点となった。1993年(平成5年)、58歳の時に発表したテキスト『「不捻」の地球を思う』の中で、神的と思われた存在が敗北し象徴が実体となった戦前の記憶は、世界を難解にし、政治と芸術に不安を持ち続ける要因になったと自己分析している。 1959年(昭和34年)、京都市立美術大学西洋画科卒業。大学卒業後はモダンアート協会に入会し、絵画を発表した。1964年(昭和39年)7月、京都市内に自宅を兼ねたアトリエを建築する。1965年(昭和40年)から具体美術協会に所属した。京都府在住者では唯一の会員となった。 具体美術協会は、1954年(昭和29年)夏に、戦前から前衛芸術家として活動していた吉原治良によって結成され、18年間にわたり阪神地域を拠点に活動した前衛美術家のグループである。その活動は、他人の真似ではなく新たなものを創るという吉原が会員に課した課題のもと、野外などの様々な空間を用い、既成概念を打ち砕く未知の芸術を創造しようとする意欲的な取組が高く評価された「前期」、1957年(昭和32年)にフランス人美術評論家ミシェル・タピエによってアジアにおけるアンフォルメルの旗手として世界に紹介され、国際的な美術家集団として名を挙げた一方、移動や売買が容易な絵画などに表現が一元化されて"具体らしさ"が損なわれた「中期」、1965年(昭和40年)第15回具体美術展を契機にアンフォルメル風の抽象表現のマンネリ化からの脱却を図った「後期」に大別される。ヨシダミノルは、後期の具体を代表するアーティストとして、頭角を現した芸術家の一人である。 1967年(昭和42年)には、プラスティックやプレキシグラスなどの新たな素材を用いた立体作品を制作するようになり、ブラックライトを用いた空間演出や、動力を取り入れた動く作品やサイケデリックな色使いなど、21世紀のテクノロジーを感じさせるような作品で 後期の具体に新たな方向性を示し、「テクノロジー・アートの先駆者」と呼ばれた。1960年代後半に注目されるようになった環境アートを代表するアーティストともみなされる。 1968年(昭和43年)、そごう神戸店で開催された「現代の空間'68〈光と環境〉」展や英国ロンドンのInstitute of Contemporary Artsで開催された「現代日本の美術 - 蛍光菊」展に招かれ、1969年(昭和44年)には、ソニービルで開催された「国際サイテック・アート展 エレクトロマジカ'69」展などへ出品し、国内外で注目された。 後年、大空ライブ美術館を開館するヨシダの構想は、この頃から散見される。1969年(昭和44年)5月に『美術手帖』に寄せた誌上シンポジウム「EP3.第3地球勢力」のなかで、ヨシダミノルは表現形式の変化に適応した新しいスタイルの美術館の必要性を強く表明している。 アーチストはあらゆる産業を生んだ, 第3物質を素材としてコミュニケイトする仕事に変わって行く, 第3アートがそれだ, 美術館ではますます, エレクトロニックアート, ライトアート, キネティックアート, その他テクノロジーアートを演奏することが不可能となって来る, EP3の文明コジキは, 場をうしなう, ウロウロしアングラ化して行く, 建築家諸君, EP3時代に適する第3美術館を早く建築することを欲す — ヨシダミノル「EP3.第3地球勢力」 ヨシダは1970年代半ばまで電気仕掛けのアート作品を手掛けていたが、そのピークはこの頃であった。1970年(昭和45年)の大阪万博では、みどり館に、動くオブジェ『バイセクシャル・フラワー』や『アートマシンno.2』、透明な自動車『アートマシンno.3』を出品した。 大阪万博でみどり館に展示され、以後、ヨシダミノルの代表作とみなされる『バイセクシャル・フラワー』は、回転する円盤を仕込んだ透明なアクリルの箱の周りに透明な6枚の花弁が広がり、全体に張り巡らせたチューブを流れる水を動力に花弁が開閉する造形物を、床から透過するブラックライトの光で照らしだしたもので、当時アメリカを中心に謳われていたフリーセックス(性別からの開放運動)の世相を意識した作品と思われる。大阪万博をきっかけに、アーティストが携われるテクノロジー部分はすべて企業体に吸い上げられ、芸術家が技術と一体化した作品を作ることが難しくなったと感じていたヨシダは、自ら出品した作品で企業体に抗う姿勢を示す。「透明な素材を使用することは、その中にあるテクノロジーの存在を剥き出しにすることであり、企業の既製品が自由に中をいじれないようにしてあるのと対極の考えを目指した。」と、『バイセクシャル・フラワー』に込めた意図を解説している。ヨシダは万博を観ることなく1970年(昭和45年)2月に日本を飛び出し、米国ニューヨークに居を構えた。『バイセクシャル・フラワー』は、前期の具体美術協会を代表する作家のひとり田中敦子の『ベル』と並んで、具体の実験精神を示す代表作であるとともに、日本の前衛美術を代表する作品のひとつに数えられ、以後、国内外の様々な展覧会に出品されている。
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