福島第一原子力発電所事故への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 02:18 UTC 版)
「吉田昌郎」の記事における「福島第一原子力発電所事故への対応」の解説
「福島第一原子力発電所事故」も参照 2011年3月に東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故が起こり、現場で陣頭指揮を執った。 東日本大震災発生翌日の3月12日、海水注入開始後に、開始したことを知らされていない首相の菅直人が海水注入による再臨界の可能性について会議で取り上げたことを受けて、首相官邸の了承を得ず海水注入を開始したことを問題視した東京電力フェローの武黒一郎は、吉田に海水注入の中止を命じた。吉田はこの命令を受領しておきながら独断で続行を決意し、担当の作業員に小声で「今から言うことは聞くな(実行するな)」と耳打ちしたうえで、本社とのテレビ会議システムが稼動する中で同作業員を含む周囲部下全員へ「注水停止」を号令し、実際には注水を継続させた。証言については、直前のテレビ会議で武黒一郎らなどの注水停止命令に対し吉田は継続を一言も主張せず、その後、注水を停止したと長らく証言し、国際原子力機関(IAEA)の査察団が来日した際に注水を継続していたと翻意した。吉田は翻意の理由について「官邸や東電本社は信用できず、国際調査団なら信用できる」と最終的に述べている。 3月13日、東京電力の社内テレビ会議にて「2号機の海水注入ラインはまだ生きていない。そこを生かしに行くにはかなり勇気がいるんだけど、これはもう『爺の決死隊』でいこかということを今相談したんで」と発言している。 会社内では親分肌で温厚な性格と評されていたが、原発事故の発生後は感情を表に出すことが増えた。同年4月上旬、1号機の格納容器が水素爆発するのを防ぐため、テレビ会議で本店から窒素ガス注入を指示された際には「やってられんわ! そんな危険なこと、作業員にさせられるか」と上層部に声を荒らげた。翌日には抗議の意味を込めてサングラス姿でテレビ会議に出席し東電役員らを驚かせた。 東京電力本店が、内閣府原子力災害対策本部の理解を得られていないため海水注入作業を一時中断せよと命令したことを無視し、独断で海水注入を続けさせたことで、6月に上司の武藤栄副社長が解任論を唱えた。当時原子力安全委員会委員長を務めていた班目春樹東京大学大学院工学系研究科教授からも「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」などと不信の声が上がった。これに対し菅直人内閣総理大臣が「事業者の判断で対応することは法律上、認められている。結果としても注入を続けたこと自体は決して間違いではなかった」と解任は不要との見解を示し、武藤副社長らの解任論を抑えた。班目春樹ものちに、吉田が東京電力本店の命令に反して注水作業を続けていなければ「東北・関東は人の住めない地域になっていただろう」と語った。ただし、2017年2月時点のシミュレーションに基づく分析によれば、注水は抜け道から漏れ、「1秒あたり、0.07〜0.075リットル。ほとんど炉心に入っていないことと同じ」であったとされている。一方、ニュースキャスターの辛坊治郎は「このような原子力災害対策特別措置法に基づく意思決定ルートに反する行為を認めると責任者が不明になる」と批判している。 吉田は体調不良を押しながら4号機燃料プールの補強工事を行っていたが、人間ドックで食道癌が発見され、2011年11月24日に入院した。その後2011年12月1日付で病気療養のために所長職を退任し、本店の原子力・立地本部事務委嘱の執行役員に異動となった。東京電力によると被曝線量は累計約70ミリシーベルトで、医師の判断では、被曝と病気との因果関係は極めて低いとしている。一方で、医学博士の米山公啓は極度のストレスが癌を進行させた可能性を指摘している。入退院を繰り返し抗癌剤治療を経て、2012年に食道切除術を受けた。その後は東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(2011年12月8日発足 - 2012年10月24日事務局閉鎖)の調査などを受けていた。 2012年6月11日、福島原発告訴団が東電役員など33人を業務上過失致死傷と公害犯罪処罰法違反の疑いで刑事告訴したが、被告の中には吉田も含まれていた。 2012年7月30日に東京電力は、吉田が同年7月26日に外出先で脳出血のため倒れ緊急入院し、緊急手術が行われたと発表した。容態については「重篤だが意識はあり、生命に別条はない」とした。 2012年11月30日、東電の社内テレビ会議映像が公開され、映像には2011年4月4日夜に吉田が放射性汚染水を海洋に放出する「ゴーサイン」を出した内容も含まれていたが、放出に至るまでの政府と東電の協議の経緯は含まれておらず、詳細は不明のままである。 吉田は治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行っていたが、2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。死去に際し、廣瀬直己東京電力社長から「決死の覚悟で事故対応にあたっていただきました。社員を代表して心より感謝します」との声明が出された。安倍晋三内閣総理大臣からは「大変な努力をされた。ご冥福をお祈りしたい」とのコメントが出され、菅直人元内閣総理大臣も「強力なリーダーシップを発揮し、事故がさらに拡大するのを押しとどめるのに大変な役割を果たした。大学の後輩でもあり、ある意味、戦友とも言える人だった」と死を惜しんだ。8月23日には青山葬儀所でお別れの会及び告別式が開かれ、安倍総理大臣、菅元総理大臣、海江田万里民主党代表、細野豪志元原子力防災担当大臣など1,050人が参列。廣瀬社長が「事故拡大の阻止に死力を尽くして当たられました。吉田さんが福島の地と人々を守ろうと、身をもって示した電力マンの責任と誇りを深く胸に刻みます」との追悼の辞を述べた。
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