社会思想・政治思想
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東浩紀はフランス哲学の研究者として知られるが、社会思想については、ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』、ピーター・シンガー『実践の倫理』、ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』など、英語圏の思想に傾倒する。東浩紀は自身の社会思想について、そういった英語圏の伝統がフランス現代思想系ポストモダンの「上」に載っかっているとしている。 また、高橋哲哉や鵜飼哲などの研究者がジャック・デリダの思想を援用しつつ左派系の社会思想を展開していることについて、デリダ研究者でもあった東浩紀は、そういった社会思想や社会運動そのものは良いとしながらも、それらとデリダ哲学を結びつけることには論理的な飛躍があるとし、非難している。 また東浩紀は、ジル・ドゥルーズに関する研究を踏まえて社会運動を展開する國分功一郎についても、社会運動そのものは良いがそれとドゥルーズ哲学は結びつかないのではないかとし、同様の指摘をしている。 社会思想に関わる東浩紀の哲学概念のなかで、一貫して非常に重要な概念となる「動物化」は、その著書『動物化するポストモダン』(2001年)において提示されたものである。アレクサンドル・コジェーヴが著書『ヘーゲル読解入門』において示した欲望と欲求の差異に基づく人間と動物の定義を引用しつつ、東浩紀は、独特の行動様式を持つと考えられていたおたく文化圏を分析素材にしつつ、現代社会における人間の様態を、「動物化」、「データベース消費」といった概念を提示することで論じた。人間性と動物性の二項対立は、『動物化するポストモダン』以降東浩紀の人間観における中核をなし、他のあらゆる議論に通底している。東浩紀を引用しながら同じく「動物化」を論じた國分功一郎(『暇と退屈の倫理学』を参照)との対談のなかで、東浩紀は、その人間観において「常に人間の原理と動物の原理は同時に動いている」、「人間と動物、両方あるのが本当の人間である」と発言し、二元論を強調している。これは、一元論で思考する國分が、一元的秩序のなかに動物と人間を並べ、人間の生成を論じているため、その哲学の原理的な差異を説明した発言である。人間の原理と動物の原理の二項対立によって語られる「動物化」の議論は、後に『一般意志2.0』(2011年)において語られる人間的公共性と動物的公共性の対に受け継がれるものであり、遡れば『存在論的、郵便的』(1998年)において語られた単数性と複数性の対としての二つの超越論性の二項対立に通底するものであり、このように、東浩紀の議論は、一貫して二元論に従っている。東浩紀は、「哲学的に言えば、弁証法が生み出す単数的人間的公共性に対抗して、<「誤配」が作り出す「動物的複数的公共性」を考える>というのが「一般意志2.0」の構想で、これは存在論的郵便的と動物化するポストモダンの完全な延長にあるプロジェクトです。」と発言し、『存在論的、郵便的』、『動物化するポストモダン』、『一般意志2.0』の三つの仕事の関連について説明している。 2002年、「情報自由論」と題する論考を『中央公論』(2002.7~2003.10)に連載していた。当初、東は、同書を「『動物化するポストモダン』と対をなし、東浩紀の現代社会論の中核」であるとし、規律訓練型権力(人間の「人間的」「主体的」部分に焦点を当てた管理手法)は近代の時代を、環境管理型権力(「動物的」「身体的」部分に焦点を当てた管理手法)はポストモダンの時代を特徴づける歴史的な概念としていたが、情報社会論と社会思想における東自身の立場の転換から、自由に関する議論自体の再考を余儀なくされ、「情報自由論」の単独での書籍化は断念された。同論考は、『情報環境論集東浩紀コレクションS』に掲載されている。書籍化の断念については、波状言論「情報自由論」において東自身の説明と、論文の全文が掲載されている。 「情報自由論」での挫折を経て以降約十年の歳月をかけ、東は2011年に『一般意志2.0』を出版した。出版後の國分功一郎との対談のなかで東は、1998年に『存在論的、郵便的』を出版して以来十数年が経ち、様々な経験を経た上で、そもそも自身の哲学の原点である『存在論的、郵便的』で構想していたもの、「誤配」の概念や二つの超越論性など、自身の哲学の原理が、再びそのまま社会思想として立ち返ってきているという感覚があると語っている。そして、『存在論的、郵便的』の内容を翻訳していくとそのまま『一般意志2.0』になるとも語っている。國分功一郎も、『一般意志2.0』には、『存在論的、郵便的』で語られた「郵便」、『動物化するポストモダン』で語られた「データベース消費」というものがそのまま受け継がれ、また「情報自由論」での失敗の経験が反映されていると、書評において分析している。『一般意志2.0』は、前節「哲学の自己証明」にも述べた通り、『動物化するポストモダン』以降彼が構想していた、消費社会と情報化社会が可能にした社会思想の一つの例でもある。そこで語られていることは、ジャン=ジャック・ルソーの時代にはまったく知られ、または想定されていなかった哲学的概念や科学技術(ジークムント・フロイトの集合的無意識やクリストファー・アレグザンダーの都市計画理論など、あるいはインターネットとそこに展開されているSNSなど)を用いて、ルソーのテクストとそこに示される一般意志の解釈を試みている。このことについて、東は同書本文中に「そのような蛮勇は、一般に学問の世界では許されない」ことを自覚する旨を記し、「本書はあくまでもエッセイである」としている。また東は、このように古典を「現代的」に読み直すという取り組みについては、かつての師である柄谷行人から学んだものであり、『一般意志2.0』は柄谷から受けた宿題への回答のつもりでもあるとしている。 『一般意志2.0』において、東は、自身の二元論哲学と動物化の概念から、動物的な「憐れみ」によるセーフティーネットを公共性(動物的公共性、誤配によって起こる公共性)と解釈し、動物的公共性なるものを提示している。これまで社会哲学や政治哲学が専ら対象としてきた人間的公共性とともに、それと同時に動物的公共性も活用していくべきだという主張を行う。そこで、公共圏の生成には人間的な言語的コミュニーケションが欠かせないとしているアーレントとハーバーマスを批判的に引用している(東の視点では、アーレントやハーバーマスは、公共性の議論において、人間的公共性のことしか考えていない。動物的公共性についても同時に考察するところが、東のオリジナリティとなる)。また社会道徳、倫理について、東は、カント主義のような「普遍的」な道徳ではなく、「あくまでも目の前の存在に対する個別の憐れみ」を重視するべきだという議論を、ルソーやローティを引用しながら展開している。東は『一般意志2.0』の第一三章において、ルソーの「憐れみ」とローティの「アイロニー」を引用し、両者の議論について、非常に近い社会形成観があるとした。また、東自身も、ルソーやローティの議論と同じく、実践的な倫理は、目の前の存在に対する憐れみ、想像力であるべきだと主張する。また、ヘーゲルが想定していたような「絶対精神の具現化としての国家」は実践的に機能しないとも、東は発言している。 『一般意志2.0』は以上のような内容を持つが、一般にルソーはロールズの政治哲学に繋がると解されるものであり、東浩紀のようにローティに接近させることは独自性のある特異な解釈である。東は主流の思想史解釈に対し自覚的且つ意図的にカウンターをあてているのである。 21世紀初頭における、Twitterというメディアと、そのコミュニケーション(あるいはコミュニケーション不全)の形態の登場を、東浩紀は、思想史的、特に言語哲学的に非常に重大な事件と捉えている。『一般意志2.0』においても、「憐れみのネットワーク」の具体例として、Twitterというツールについて度々言及している。同書出版より少し前(2011年初頭)に東浩紀は、もしも自分がいま大学院生であればデリダ、ウィトゲンシュタイン、クリプキなどの理論を用いてTwitterと言語哲学に関する論文を書いていただろうという旨の発言をしている。また、「討議的理性とか近代的公共性とかの権化」のようなユルゲン・ハーバーマスがもしもTwitterを一瞬でも触ったならば、その事実だけを以て十分に思想的事件だろうとも発言している。 2017年、東は『存在論的、郵便的』、『一般意志2.0』などで展開した議論を踏まえ、『観光客の哲学』を自らの出版社ゲンロンから刊行した。
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