磯部の御神田とは? わかりやすく解説

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磯部の御神田

名称: 磯部の御神田
ふりがな いそべのおみた
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 磯部の御神田奉仕
指定年月日 1990.03.29(平成2.03.29)
都道府県(列記): 三重県
市区町村(列記): 志摩郡磯部町
代表都道府県 三重県
備考
解説文:  これは皇大神宮伊勢内宮)の別宮伊雑宮(いぞうのみや)の御料田において行われる行事で、摂津住吉神社のものなどとともに世に知られ田植神事である。これを輪番執行している磯部九郷の人達の間では、この行事はオミタと通称されているが、文献には御神田表記されている。
 この行事起源について行事最後次第踊り込み」の歌に「昔真名鶴磯部千田に、稲穂落したそのまつり」とあるように、磯部伝承されるの穂落し」の故事関わりがあるものと地元では考えられて来た。言い伝えによれば垂仁天皇御代に、倭姫命やまとひめのみこと】が神宮の御贄【みにえ】地を求めて志摩の国を巡られた時、伊雑宮のあるこの地で一基ひともと】で千穂にもなる立派な稲をくわえていた遭遇したという。江戸時代元禄の頃にこの行事存在を示す文献もあるとされるが、行事使用太鼓入れ木箱文化五年(一八〇八)の墨書銘のものがあるなど、ともかくこの行事由来を示す史料江戸中期以後のものとなる。
 この行事携わる磯部九郷の人達は、五知上之郷沓掛山田下之郷穴川迫間築地恵利原の各郷が、この組み合わせ順序毎年交替担当し各々奉仕八年目ごとに行っている。祭日は、明治四年一時中断する以前には旧暦五月吉日であったが、明治十五復活してからは毎年新暦六月二十四日ということで日が確定して今日に至る。前日二十三日、船に乗り、伊雑浦へ漕ぎ出して潮垢離しおごり】を掻き当日二十四日は、早朝から諸役一同(杁差【えぶりき】し二人立人【たちうど】六人早乙女さおとめ六人、ささら二人太鼓打ち一人、笛二人大鼓【おど】一人小鼓【こど】一人、謡六人、それに警護その他の人々)が身仕たく準備をし、午前十一時過ぎ修祓【しゆばつ】を受け、一同伊雑宮から約二〇メートル離れた御料田へ行列する。いよいよ御神田行事開始となり、まず立人早乙女が手をつなぎあって苗代田を三周半した後早苗を取る。続いて「竹取り」の次第となる。笹葉のついた六、七メートル竹の上方に丸い形のと縦長形のと二つ大団扇(ゴンバウチワとかサシバ称す)を取りつけ忌竹を畦に立て、これを倒すと裸の若者漁師)達が泥田中に引きずり込み奪い合って持ち去るズタズタ切り裂いた団扇等の一部を家の神棚船霊様に供えて豊漁祈願をする。これが終わって本格的な御田植始まりとなる。荒れた田面を杁差しならした後、早乙女立人交互に並んで田植えをする。その後方で太鼓、ささら、笛、大鼓小鼓楽器が囃され、謡がうたわれる半分植えたところで早乙女の酌による酒と若布とによる中休み酒宴となる。この酒宴の肴にという趣向で、ささら役が、「刺差舞【さいとりさしまい】」を舞う。この後、また前半と同様楽器囃子・謡を背に田植え進められ午後一時過ぎ終了する休憩の後、午後二時半頃から諸役一同行列をして、御料田から伊雑宮まで唄をうたいつつ踊り込む。祝い唄をうたい祝儀気分横溢するが、一行歩み誠に遅く二〇メートル足らず道のり二時間もかけて進む。
 この御神田は、田植作業を声や楽器でうたい囃しつつ進めるという田楽芸能一類(田囃子)で神田【かんだ】にて行われるもの(田植神事)の一つである。穂落しという稲作起源伝説伝承地育まれてきたものであること、室町時代応永の頃御田祭が行われていたことを示す史料を残す皇大神宮のものと同種の行事であること等きわめて由緒のあるものである。また「竹取り」の次第、「刺差舞」などがあるなど独特な形に展開した田植神事としても特徴を持つものである
 よって重要無形民俗文化財指定し、その保存図ろうとするものである

磯部の御神田

名称: 磯部の御神田
ふりがな いそべのおみた
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 磯部の御神田奉仕
選択年月日 1973.12.04(昭和48.12.04)
都道府県(列記): 三重県
市区町村(列記): 志摩郡磯部町
代表都道府県 三重県
備考 所在地同一都道府県内のもの(このデータ種別1から移行しています)
解説文:  これは皇大神宮伊勢内宮)の別宮伊雑宮(いぞうのみや)の御料田において行われる行事で、摂津住吉神社のものなどとともに世に知られ田植神事である。これを輪番執行している磯部九郷の人達の間では、この行事はオミタと通称されているが、文献には御神田表記されている。
 この行事起源について行事最後次第踊り込み」の歌に「昔真名鶴磯部千田に、稲穂落したそのまつり」とあるように、磯部伝承されるの穂落し」の故事関わりがあるものと地元では考えられて来た。言い伝えによれば垂仁天皇御代に、倭姫命やまとひめのみこと】が神宮の御贄【みにえ】地を求めて志摩の国を巡られた時、伊雑宮のあるこの地で一基ひともと】で千穂にもなる立派な稲をくわえていた遭遇したという。江戸時代元禄の頃にこの行事存在を示す文献もあるとされるが、行事使用太鼓入れ木箱文化五年(一八〇八)の墨書銘のものがあるなど、ともかくこの行事由来を示す史料江戸中期以後のものとなる。
 この行事携わる磯部九郷の人達は、五知上之郷沓掛山田下之郷穴川迫間築地恵利原の各郷が、この組み合わせ順序毎年交替担当し各々奉仕八年目ごとに行っている。祭日は、明治四年一時中断する以前には旧暦五月吉日であったが、明治十五復活してからは毎年新暦六月二十四日ということで日が確定して今日に至る。前日二十三日、船に乗り、伊雑浦へ漕ぎ出して潮垢離しおごり】を掻き当日二十四日は、早朝から諸役一同(杁差【えぶりき】し二人立人【たちうど】六人早乙女さおとめ六人、ささら二人太鼓打ち一人、笛二人大鼓【おど】一人小鼓【こど】一人、謡六人、それに警護その他の人々)が身仕たく準備をし、午前十一時過ぎ修祓【しゆばつ】を受け、一同伊雑宮から約二〇メートル離れた御料田へ行列する。いよいよ御神田行事開始となり、まず立人早乙女が手をつなぎあって苗代田を三周半した後早苗を取る。続いて「竹取り」の次第となる。笹葉のついた六、七メートル竹の上方に丸い形のと縦長形のと二つ大団扇(ゴンバウチワとかサシバ称す)を取りつけ忌竹を畦に立て、これを倒すと裸の若者漁師)達が泥田中に引きずり込み奪い合って持ち去るズタズタ切り裂いた団扇等の一部を家の神棚船霊様に供えて豊漁祈願をする。これが終わって本格的な御田植始まりとなる。荒れた田面を杁差しならした後、早乙女立人交互に並んで田植えをする。その後方で太鼓、ささら、笛、大鼓小鼓楽器が囃され、謡がうたわれる半分植えたところで早乙女の酌による酒と若布とによる中休み酒宴となる。この酒宴の肴にという趣向で、ささら役が、「刺差舞【さいとりさしまい】」を舞う。この後、また前半と同様楽器囃子・謡を背に田植え進められ午後一時過ぎ終了する休憩の後、午後二時半頃から諸役一同行列をして、御料田から伊雑宮まで唄をうたいつつ踊り込む。祝い唄をうたい祝儀気分横溢するが、一行歩み誠に遅く二〇メートル足らず道のり二時間もかけて進む。
 この御神田は、田植作業を声や楽器でうたい囃しつつ進めるという田楽芸能一類(田囃子)で神田【かんだ】にて行われるもの(田植神事)の一つである。穂落しという稲作起源伝説伝承地育まれてきたものであること、室町時代応永の頃御田祭が行われていたことを示す史料を残す皇大神宮のものと同種の行事であること等きわめて由緒のあるものである。また「竹取り」の次第、「刺差舞」などがあるなど独特な形に展開した田植神事としても特徴を持つものである
 よって重要無形民俗文化財指定し、その保存図ろうとするものである

磯部の御神田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 22:46 UTC 版)

磯部の御神田(いそべのおみた)は、三重県志摩市伊雑宮に伝わる民俗芸能の田楽。保護団体は、磯部の御神田奉仕会。1973年12月4日記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択[1]1990年3月29日重要無形民俗文化財に指定された。また東海農政局による「東海美の里百選」に選定されている[2]

伊雑宮御田植祭

毎年6月24日に行われる伊雑宮御田植祭で披露される。祭りそのものも御神田と呼ばれる。開催日の6月24日は、倭姫命の巡幸の際に7匹のサメが野川を遡上(そじょう)し、命に伊雑宮の鎮座地を示したという「七本鮫」伝承に基づく[3]。毎年この日には7匹のサメが伊雑宮に参詣するとされ、近隣の漁師は休漁する習慣がある[3]

歴史

起源は定かではないが、平安時代末期に現在の形が成立したという説が一般的である。

  • 天保年間(1830年〜1843年) - 祭の時ににくるんで餅を振る舞う中で、恵利原早餅つきが誕生[4]さわ餅も同時期の誕生とされる[5]
  • 1871年(明治04年) - 神宮改革により中断。
  • 1882年(明治15年) - 虫除祈念の名目で再興。
  • 戦時中も途絶えることなく続けられた。
  • 1971年(昭和46年) - 三重県の無形民俗文化財に指定。
  • 1990年(平成02年)3月29日 - 国の重要無形民俗文化財に指定。
  • 2020年(令和02年) - 新型コロナウイルス感染症の流行を受けて、役員による田植えのみ実施[6]
  • 2021年(令和03年) - 感染症対策を施して、御田植神事・踊り込みを再開[6]。竹取神事は2年連続で中止[6]

奉仕区

明治時代以前に「磯部七郷」、後に「磯部九郷」と呼ばれた以下の9地区(いずれも志摩市磯部町内)が、以下の並び順に7年に1度祭りを担当する。2011年(平成23年)は下之郷区が務めた[7]。2020年(令和2年)は迫間区が担当する予定であったが、新型コロナウイルス感染症の影響で神事を中止したため、2021年(令和3年)にずれ込んだ[8]。おおむね旧磯部村の領域に一致するが、坂崎・飯浜は奉仕区に含まれない[9]

*は2地区合同で行う。

上之郷に残る『年中行事覚書』には、江戸時代の奉仕区について以下のように記している[10]

一、ハ下之郷村。一、ハ築地村、迫間村、穴川村。一、ハ恵利原村。一、は五知村・上之郷村、沓掛村・山田村。

すなわち、下之郷と恵利原は4年ごと、五知・上之郷と沓掛・山田は8年ごと、築地、迫間、穴川は12年ごとに担当が回ってくるようになっており、地区により担当回数に大きな差があった[10]

やくびと

御神田に奉仕する人を「やくびと」(役人)と言う。以前は衣装を自前で用意する必要があったため、地区の有力者から順に選ばれることが多かった。そのため、神事に出られることを名誉とする風潮があったが、少子化のため、そうした雰囲気は薄れてきている[8]

以下に役とその役割を記す。

  • 太鼓(太鼓打ち) - 1人。女装した男児が田舟に乗って太鼓を演奏する。
  • (ささら、簓摺り) - 2人。簓という楽器を演奏する。「さいとりさし」の舞も担当する。
  • 早乙女 - 6人。御神田の花形。やくびとの中で女性が担当するのはこれだけである。
  • 大鼓(おど) - 太鼓とも表記する。1人。要所で掛け声の後、を打つ。
  • 小鼓(こど) - 1人。大鼓と交互に鼓を打つ。
  • 謡(うたい)- 6人。田植え歌と踊り込み歌を担当。
  • - 2人。田楽の曲を担当する。
  • 立人・田道人(たちど) - 6人。早乙女とともに田植えを行う。
  • 柄振(えぶり、柄振指し) - 2人。竹取り神事の後の田をならしたり、踊り込みの先導を務める。
  • 警護 - 1人。長い歴史の中で本来の名前は不明となり、役割から「警護」と呼ばれる。他のやくびとを見守り、祭りの円滑な進行を支える。

やくびとのほかにも、忌竹(いみだけ)を奪い合う男衆、伊雑宮の神職、神事の指導をする師匠、奉仕区の区長、やくびとの身辺の世話人、神田のある上之郷の住民などが祭りの運営に携わっている。

祭りの次第

  1. 拝礼 - やくびとが祭りの成功を祈願して参拝とお祓いをする。
  2. 苗取り - 田道人と早乙女が苗場を3周半回って苗を取る。
  3. 竹取神事 - 神田の中央に設置された、「太一」と書かれたうちわ(ゴンバウチワと称する)のついた忌竹(いみだけ)を男が奪い合う。この竹の一片を船に祀れば豊漁となると伝えられるため、男たちは荒々しい奪い合いを繰り広げる[11]。見物客の注目を集める場面であるが、古記録に現れるのは1882年(明治15年)頃であり、祭りの本質ではないとされる[8]
  4. 御田植神事 - 笛や太鼓の演奏の中、早乙女と田道人(たちど)が横一列になって苗を植えて行く。半分ほど植え終えたところで、やくびとに酒が振る舞われる[注 1]。この後、簓によって、「刺鳥差の舞」(さいとりさしのまい)が舞われる[7]。曲調は各地区共通であるが、詞が若干異なる。また、下之郷区のみ太鼓による「岩戸開きの舞」が披露される[7]
  5. 踊込み - 休憩を挟んだ後、「エイエイシャントセー」という踊り込み歌を歌いながら、神田から伊雑宮一の鳥居までの約200mを2時間かけて練り歩く。感染対策のため、2021年(令和3年)は30分に短縮された[8]歌詞は地区ごとに異なる。一般にはこれにて祭りは終了と思われている。
  6. 千秋楽の仕舞 - 太鼓と簓によって舞われる、短い舞。

脚注

注釈
  1. ^ 未成年のやくびとは、飲む真似をするだけである。
出典
  1. ^ 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護課"みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財/情報データベース/磯部の御神田 "(2013年12月18日閲覧。)
  2. ^ 東海農政局農村計画部農村振興課"[1]"(2011年12月1日閲覧。)
  3. ^ a b 海の博物館・石原(1996)16ページ
  4. ^ 伊勢志摩きらり千選/恵利原早餅搗”. 伊勢志摩きらり千選実行グループ. 2011年6月28日閲覧。
  5. ^ さわもち”. 伊勢志摩きらり千選. 伊勢志摩きらり千選実行グループ. 2018年3月5日閲覧。
  6. ^ a b c 阿部竹虎 (2021年6月25日). “2年ぶりに早乙女ら苗植え 志摩・伊雑宮の「御田植祭」”. 中日新聞. 2021年6月25日閲覧。
  7. ^ a b c 飯田(2011):16ページ
  8. ^ a b c d 阿部竹虎"コロナ禍も 伝統守る 感染症対策徹底24日「御田植祭」"中日新聞2021年6月22日付朝刊、伊勢志摩版
  9. ^ 櫻井(1991):286ページ
  10. ^ a b 伊藤 編(1976):22ページ
  11. ^ 海の博物館・石原(1996)17ページ

参考文献

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度22分50.02秒 東経136度48分31.72秒 / 北緯34.3805611度 東経136.8088111度 / 34.3805611; 136.8088111




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