着水と検疫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 21:05 UTC 版)
6月5日、カール・J・セイバーリック(英語版)大佐指揮下の航空母艦ホーネットが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のヘリコプター揚陸艦プリンストンに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州ロングビーチにあった。7月5日に真珠湾に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とするHS-4のSH-3 シーキング数機、水中爆破班(英語版)アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用のボイラープレート(英語版)(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた。 7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域(北緯10度36分 東経172度24分 / 北緯10.600度 東経172.400度 / 10.600; 172.400付近)に向けて真珠湾を出港した。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、ウィリアム・P・ロジャース(英語版)国務長官、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官からなる大統領一行は、エアフォースワンでジョンストン環礁まで飛び、そこで指揮艦アーリントン艦上のマリーンワンに乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でパゴパゴから飛来していたアメリカ太平洋軍最高司令官のジョン・S・マケイン・ジュニア大将とNASA長官のトマス・O・ペイン(英語版)からあいさつを受けた。 当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可(required security clearance)を有していた真珠湾の艦隊気象センターの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、ドナルド・C・デイヴィス(英語版)少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した。これにより、新たな回収海域が指定され、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった。 回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた。飛行士たちは最初のプログラムの指令で6.5標準重力加速度 (64 m/s2)の加速度を受け、2番目のプログラムで6.0標準重力加速度 (59 m/s2)の加速度を体感させられることとなった。 7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機E-1が発進した。うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の減速用パラシュート(英語版)が開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、ウェーク島の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点(北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150)に着水した。着水 (splashdown) 時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に海錨(英語版)を取りつけた。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。 ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から病原体を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは次亜塩素酸ナトリウム製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をベタダインを使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた。 ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは移動式隔離施設(英語版)(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の検疫期間が開始されることになった。この措置は、後続のアポロ12号とアポロ14号の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた。 ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車(英語版)に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはC-141に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは月試料受入研究所(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のためにフォード島に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、ヒッカム空軍基地に運ばれ、そこからC-133でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した。 7月16日にNASAが発布した一連の規定、地球外暴露法(英語版)に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官ウィリアム・カーペンティア(英語版)とMQFプロジェクト技師ジョン・ヒラサキ(英語版))、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった。
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