生涯とそのサロンについて
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「ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ」の記事における「生涯とそのサロンについて」の解説
ピサニ侯爵で、ローマに駐在していたフランス大使のジャン・ド・ヴィヴォンヌ(Jean de Vivone,marquise de Pisani)と、ローマの4大名門貴族の1つであるサヴェリ家出身のジュリア・サヴェリ(Julia Savelli)との間に1588年にローマで生まれた。ルネサンスが円熟期を迎えていたイタリアで育ち、文明の空気を存分に吸収して育った。幼少のころから学問や芸術を修め、特に語学が堪能であったという。1595年、7歳の時に一家そろってフランスへ帰国し、イタリア人扱いであったため、1594年にフランスに帰化した。1600年には僅か12歳で、後にランブイエ侯爵となるシャルル・ダンジェンヌ(Charles d'Angennes)と結婚した。1611年に夫の父親が亡くなったため、正式にランブイエ侯爵夫人と名乗れるようになり、アンリ4世の宮廷にも出入りできるようになった。夫はルイ13世の衣装部屋係や、旅団長を務め、後に外交官となった。 カトリーヌはフランスに帰化して後も、ルネサンス・ローマを知ることによって得られた優美な気風を失うことなく、精神的なしなやかさや、活発さ、優雅さを失わなかった。そのような彼女にとって、当時のアンリ4世の宮廷の雰囲気はとても耐えられるものではなかった。「垢じみたレースの襟をつけ、ニンニクと安酒の匂いのする男たちが入り口にたむろし、小刀で歯をほじくり、階段下で立ち小便をする」「万事田舎風」であったという。長年に亘る内乱、宗教戦争がようやく落ち着き、王権が確立されてまだ間もなかったこの頃は、粗野な雰囲気が宮廷にみなぎっていたのである。宮廷だけでなく、世間も同じようなものであった。乱れ切った世の中は平和と秩序を、とりわけ優雅な風俗を求めた。戦争の終結によって肩書や武勇は急速に価値を失い、それらを自らの存在価値としてきた貴族たちは拠り所を失って、それらに代わるものを欲していた。 1607年、19歳の時に長女ジュリー・ダンジェンヌを身籠った。夫人は病弱であったらしく、病気を理由に宮廷から去った。当時宮廷の社交生活を辞することなど極めて稀なことであり、宮廷の蛮風に失望したのが、原因ではないかと考えられている。カトリーヌはオノレ・デュルフェの小説「アストレ」で描かれるユートピアに憧れ、これを自邸で実現しようと考えた。当時の貴族たちにはこの小説に描かれるような風俗の純化が必要であると考えたからである。諸説あって正確にはわからないが、自邸に1610年頃、サロンを開いた。 サロンは広く世間に受け入れられた。世の中が求めていた優雅な風俗を提供することができたし、カトリーヌ自身が当時ヨーロッパの社交の中心地であったイタリアで育ち、その洗練をよく知っていたため、それをもたらすことができる魅力を備えていたからである。このサロンには多くの人が集まることとなり、これまでの社会に通用していた道徳とはまた違った社交界のしきたりが生まれた。他人に不快を与えないよう、態度、服装などに注意し、一切の過激さを排除する。こうしてオネットム (honnête homme) と呼ばれる社交人の典型が生まれた。貴族たちはこの社交人の典型を理想とし、ここに武勇に代わる拠り所を見出した。貴族の優越は生き方、話し方、振舞いなどによって決定されるようになり、交際や会話、文通の官能化、快楽の追及などが行われ、かくして「ギャラントリー(Galanterie)」を体現するに至ったのである。 彼女のサロンに出入りする才媛をプレッシューズ(Précieuses)、男性ならプレッシュー(précieux)と呼んだ(プレッシューズという言葉が、モリエールの「才女気取り」において攻撃対象となったように、「衒学的で、お高くとまっている女」といった意味を帯びたのは1650年代になってからである。この当時、つまり1620~30年代の段階では、侮蔑的な意味は持っておらず、彼女たちをプレッシューズと呼ぶとき、その意味で解釈するのは誤りである)。 プレッシューズの主張や風潮をプレシオジテ(Préciosité)と呼び、夫人を中心とする社交界を母胎として発展していった。プレシオジテは1680年代頃に終わりを迎えるが、その期間を大別して2期に分けることができる。ランブイエ侯爵夫人のサロンを中心としていた前期(1620~1648年)とマドレーヌ・ド・スキュデリーのサロン「土曜会」を中心とする後期(1650~80年)である。元々プレシオジテは、先述したように「粗野で殺伐とした風潮を一掃する」ことに目的があった。確かに、モリエールが嘲笑、攻撃したように滑稽な面もあったが、フランス文学や社会に果たした貢献は決して少ないものではない。プレシオジテによって、風俗は浄化され、フランス語は美しく洗練された言語へと進化した。現代フランス語においても、彼女たちの創案による語句や表現は多く残っている。このように、プレシオジテはフランス人の精神と深くかかわりを持っているものであり、この風潮にランブイエ侯爵夫人は多大な影響を与えている。 彼女のサロンは世俗的、貴族的なサロンで、人々は何よりも楽しむことを求めた。最も重視されたのは階級などではなく、機知に富み、気の利いた会話で人を惹き付ける能力であった。実際、ワイン商人の息子として生まれた詩人のヴォワチュールは、その才知と人柄の魅力によってサロンの中心的な存在となっている。文学も遊びの中の1つでしかないながらも、もてはやされ、ロンド、マドリガル、エニグマなど、流行する小作品の制作が広く行われた。「ル・シッド論争」や「ヨブ」と「ユラニー」の優劣を巡っての論争など、様々な文学論争にも参加した。それに疲れると他愛もない遊びや冗談に興じ、天気の良い日には野外に出て舞踊や仮想を楽しんだ。 1645年7月に、長女のジュリー・ダンジェンヌが結婚し、モントジエ夫人となった。同じ頃に次女が院長を務めていた修道院から、預けていた末娘のアンジェリック・クラリスを邸宅に引き取った。アンジェリックはランブイエ嬢(Mlle de Rambouillet)と呼ばれるようになった。名前と赤い髪のかつらを、サロンの常連だったアンジェリック・ポーレから受け継いだようである。ヴォワチュールやランブイエ邸の執事シャヴァロッシュ(Jead de Chavaroche)も、ジュリーやアンジェリックに想いを寄せていたことがその手紙に残っている。彼らは歳も身分も離れた娘たちをめぐって争い、ついに邸宅の庭先で刃傷沙汰を起こした。この結果、ヴォワチュールはランブイエ邸宅への出入りを禁じられてしまった。 アンジェリックはタルマン・デ・レオーによって、侮蔑的な意味での「プレッシューズ」であると名指しされている。彼による証言がある: …それから1年ほどたって、ランブイエ嬢はジル・メナージュに対して奇妙な挨拶をした。「あなたのお話の中に私が登場したと聞きました。好ましく思いませんので、良いことであれ悪いことであれ、私については話題にされませんように」。私にしてみれば、もし彼女が私にそのようなことを言ってきたなら、たとえどんなに長くかかることになっても、この方が結婚されて邸宅からいなくなるまでは、ランブイエ邸に足を踏み入れなかっただろう。だがメナージュは、ランブイエ嬢と食事さえしていた… …彼女を快く思わぬ貴族は少なくなかった。一度宮廷から来た誰かに向かって大きくこう言ったことがある。「何か飲み物が必要だわ。だってそれなしでは間もなくここで死んでしまいそう。」ランブイエ嬢がいるときにはモントジエ氏には会いに行かない、ランブイエ嬢はなにか行儀の悪い言葉を聞くと失神するのだから、と公言する人物がいた。他の誰かはランブイエ嬢に向かって話しながら、長い間avoine(エンバク)という言葉について、avoine,aveine,aveneのどれが正解であったか迷っていた。「avoine,avoine、いったいこのうちではどう話してよいのやら」彼女はこの嫌味を面白く思い、それ以来その人物を好んだ… このほかにもマドレーヌ・ド・スキュデリーなどによる論評がある。上に見たタルマン・デ・レオーによる2つの評からは「プレッシューズ」の特徴、すなわち高飛車な態度、感性の異なる相手との付き合いを避けようとする態度、語彙や発音などへの過敏さ、などが読み取れる。 アンジェリックは1658年4月29日、グリニャン伯爵(François-Adhémar de Monteil,comte de Grignan)と結婚し、グリニャン伯夫人となった。1663年7月には娘が生まれるが、翌年12月22日に死去した。 結局、サロンの中心的な存在だった詩人ヴォワチュールは邸宅への出入り禁止を解かれないまま、1648年に死去した。同年にフロンドの乱が勃発したため、サロンは一時閉館となった。乱が終結したかと思えば、終結と同じ年に夫であるランブイエ侯爵が死去するなど、相次ぐ事件と社会情勢に飲み込まれ、サロンは急速に人気を失っていったが、1665年の夫人の死去まで続いていた。
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