生涯とそのサロンについてとは? わかりやすく解説

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生涯とそのサロンについて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/11 00:32 UTC 版)

ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ」の記事における「生涯とそのサロンについて」の解説

ピサニ侯爵で、ローマ駐在していたフランス大使のジャン・ド・ヴィヴォンヌ(Jean de Vivone,marquise de Pisani)と、ローマ4大名門貴族1つであるサヴェリ家出身のジュリア・サヴェリ(Julia Savelli)との間に1588年ローマで生まれたルネサンス円熟期を迎えていたイタリアで育ち文明空気存分に吸収して育った幼少ころから学問芸術修め、特に語学堪能であったという。1595年7歳時に一家そろってフランスへ帰国しイタリア人扱いであったため、1594年フランスに帰化した。1600年には僅か12歳で、後にランブイエ侯爵となるシャルル・ダンジェンヌ(Charles d'Angennes)と結婚した1611年夫の父親が亡くなったため、正式にランブイエ侯爵夫人と名乗れるようになり、アンリ4世宮廷にも出入りできるようになった。夫はルイ13世衣装部屋係や、旅団長務め、後に外交官となったカトリーヌフランスに帰化して後も、ルネサンス・ローマを知ることによって得られ優美な気風を失うことなく精神的なしなやかさや、活発さ優雅さを失わなかった。そのような女にとって、当時アンリ4世宮廷雰囲気はとても耐えられるものではなかった。「垢じみたレースの襟をつけ、ニンニク安酒匂いのする男たち入り口たむろし小刀で歯をほじくり階段下で立ち小便をする」「万事田舎風」であったという。長年亘る内乱宗教戦争がようやく落ち着き王権確立されてまだ間もなかったこの頃は、粗野な雰囲気宮廷みなぎっていたのである宮廷だけでなく、世間同じようなものであった乱れ切った世の中は平和と秩序を、とりわけ優雅な風俗求めた戦争の終結によって肩書武勇急速に価値失い、それらを自らの存在価値としてき貴族たちは拠り所失って、それらに代わるものを欲していた。 1607年19歳時に長女ジュリー・ダンジェンヌを身籠った。夫人病弱であったらしく、病気理由宮廷から去った当時宮廷社交生活を辞することなど極めて稀なことであり、宮廷蛮風失望したのが、原因ではないか考えられている。カトリーヌはオノレ・デュルフェの小説「アストレ」で描かれるユートピア憧れ、これを自邸実現しよう考えた当時貴族たちにはこの小説描かれるような風俗純化が必要であると考えたからである。諸説あって正確にわからないが、自邸1610年頃、サロン開いたサロン広く世間受け入れられた。世の中求めていた優雅な風俗提供することができたし、カトリーヌ自身当時ヨーロッパ社交中心地であったイタリアで育ち、その洗練をよく知っていたため、それをもたらすことができる魅力備えていたからである。このサロンには多くの人が集まることとなり、これまでの社会通用していた道徳とはまた違った社交界しきたり生まれた他人に不快を与えないよう、態度服装など注意し一切過激さを排除する。こうしてオネットム (honnête homme) と呼ばれる社交人の典型生まれた貴族たちはこの社交人の典型理想とし、ここに武勇代わる拠り所見出した貴族優越生き方話し方振舞いなどによって決定されるようになり、交際会話文通官能化、快楽追及などが行われ、かくして「ギャラントリー(Galanterie)」を体現する至ったのである。 彼女のサロン出入りする才媛をプレッシューズ(Précieuses)、男性ならプレッシュー(précieux)と呼んだ(プレッシューズという言葉が、モリエールの「才女気取り」において攻撃対象となったように、「衒学的で、お高とまっている女」といった意味を帯びたのは1650年代になってからである。この当時、つまり162030年代段階では、侮蔑的な意味は持っておらず、彼女たちをプレッシューズと呼ぶとき、その意味解釈するのは誤りである)。 プレッシューズの主張風潮プレシオジテ(Préciosité)と呼び夫人中心とする社交界母胎として発展していった。プレシオジテ1680年代頃に終わり迎えるが、その期間を大別して2期分けることができる。ランブイエ侯爵夫人サロン中心としていた前期(16201648年)とマドレーヌ・ド・スキュデリーのサロン土曜会」を中心とする後期(1650~80年)である。元々プレシオジテは、先述たように粗野殺伐とした風潮一掃する」ことに目的があった。確かにモリエール嘲笑攻撃したように滑稽な面もあったが、フランス文学社会果たした貢献決し少ないものではない。プレシオジテによって、風俗浄化されフランス語美しく洗練された言語へと進化した現代フランス語においても、彼女たち創案による語句表現多く残っている。このようにプレシオジテフランス人精神深くかかわり持っているものであり、この風潮ランブイエ侯爵夫人多大な影響与えている。 彼女のサロン世俗的貴族的なサロンで、人々何よりも楽しむことを求めた。最も重視されたのは階級などではなく機知富み気の利いた会話で人を惹き付ける能力であった実際ワイン商人息子として生まれた詩人のヴォワチュールは、その才知人柄魅力によってサロン中心的な存在となっている。文学遊びの中の1つしかないながらも、もてはやされロンドマドリガルエニグマなど、流行する小作品の制作広く行われた。「ル・シッド論争」や「ヨブ」と「ユラニー」の優劣巡って論争など、様々な文学論争にも参加した。それに疲れると他愛もない遊び冗談に興じ天気良い日には野外出て舞踊仮想楽しんだ1645年7月に、長女のジュリー・ダンジェンヌが結婚し、モントジエ夫人となった。同じ頃に次女院長務めていた修道院から、預けていた末娘のアンジェリック・クラリスを邸宅引き取ったアンジェリックランブイエ嬢(Mlle de Rambouillet)と呼ばれるようになった。名前と赤い髪のかつらを、サロン常連だったアンジェリック・ポーレから受け継いだようである。ヴォワチュールやランブイエ邸の執事シャヴァロッシュ(Jead de Chavaroche)も、ジュリーアンジェリック想い寄せていたことがその手紙に残っている。彼らは歳も身分離れた娘たちめぐって争い、ついに邸宅庭先刃傷沙汰起こした。この結果、ヴォワチュールはランブイエ邸宅への出入り禁じられてしまった。 アンジェリックはタルマン・デ・レオーによって、侮蔑的な意味での「プレッシューズ」であると名指しされている。彼による証言がある: …それから1年ほどたって、ランブイエ嬢はジル・メナージュに対して奇妙な挨拶をした。「あなたのお話中に私が登場した聞きました好ましく思いませんので、良いことであれ悪いことであれ、私について話題にされませんように」。私にしてみれば、もし彼女が私にそのようなことを言ってきたなら、たとえどんなに長くかかることになっても、この方結婚され邸宅からいなくなるまでは、ランブイエ邸に足を踏み入れなかっただろう。だがメナージュは、ランブイエ嬢と食事さえしていた… …彼女を快く思わぬ貴族少なくなかった一度宮廷から来た誰か向かって大きくこう言ったことがある。「何か飲み物必要だわ。だってそれなしでは間もなくここで死んでまいそう。」ランブイエ嬢がいるときにはモントジエ氏には会い行かないランブイエ嬢はなにか行儀の悪い言葉聞く失神するのだから、と公言する人物がいた。他の誰かランブイエ嬢に向かって話しながら、長い間avoine(エンバク)という言葉について、avoine,aveine,aveneのどれが正解であった迷っていた。「avoine,avoine、いったいこのうちではどう話してよいのやら」彼女はこの嫌味面白く思いそれ以来その人物を好んだ… このほかにもマドレーヌ・ド・スキュデリーなどによる論評がある。上に見たタルマン・デ・レオーによる2つの評からは「プレッシューズ」の特徴、すなわち高飛車な態度感性異な相手との付き合い避けようとする態度語彙発音などへの過敏さ、などが読み取れるアンジェリック1658年4月29日、グリニャン伯爵(François-Adhémar de Monteil,comte de Grignan)と結婚し、グリニャン伯夫人となった1663年7月には娘が生まれるが、翌年12月22日死去した結局サロン中心的な存在だった詩人ヴォワチュールは邸宅への出入り禁止解かれないまま、1648年死去した同年フロンドの乱勃発したため、サロン一時閉館となった。乱が終結したかと思えば終結と同じ年に夫であるランブイエ侯爵死去するなど、相次ぐ事件社会情勢飲み込まれサロン急速に人気失っていったが、1665年夫人死去まで続いていた。

※この「生涯とそのサロンについて」の解説は、「ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ」の解説の一部です。
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