現皇居の歴史とは? わかりやすく解説

現皇居の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 19:04 UTC 版)

皇居」の記事における「現皇居の歴史」の解説

1868年慶応4年)、明治天皇東京行幸により江戸城東京城とうけいじょう)と称され東京皇居となる。1869年明治2年)、2度目東京行幸天皇東京滞在発表され東京城皇城こうじょう)と称される東京奠都)。1873年明治6年)、それまで天皇御座所とされていた江戸城西の丸御殿火災のため焼失し一時赤坂離宮を仮皇居とした。 1879年明治12年西の丸新宮殿造営することが決まり1888年明治21年)に明治宮殿落成し同年10月27日以後宮城きゅうじょう)と称された。明治宮殿は、御車寄、正殿東溜、西溜、豊明殿千種の間、鳳凰の間など、儀式応接政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿木造で、外観和風建築だが、内部和風格天井からシャンデリア下げるなど和洋折衷とし、椅子テーブル用いていた。この明治宮殿太平洋戦争末期1945年昭和20年5月空襲による飛び火焼失した1935年頃、宮内省第2期庁舎鋼鉄扉の防空室(地下金庫室)が作られた。だが、内部狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近く新たに防空壕作ることになった。後に御文庫命名される大本営防空壕完成するまでの間、昭和天皇香淳皇后空襲警報発令の度に宝剣神璽三種の神器のうち剣と璽)とともに地下金庫室避難していた。 このほか宮内省1941年太平洋戦争開戦直前東京府南多摩郡鶴川村(現・町田市)の多摩丘陵一角で、空襲対策兼ねた柿生離宮新設検討して密かに視察重ねたが、宮内大臣松平恆雄判断取りやめた。 皇居内では1941年昭和16年4月12日御文庫(おぶんこ)が極秘着工され1942年12月31日完成した施工請負ったのは大林組建築費は約200万円であった建坪1,320m2。地上1階地下1階2階3階建て。そこには天皇・皇后寝室居間書斎応接室皇族御休息所、食堂洗面所侍従室、女官室、風呂便所などがあった。このほか、映写ホールピアノ玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3m厚さであった天皇午前中表御座所(御政務室)、午後御文庫で過ごすのが日課であった1945年昭和20年6月頃に戦況悪化したため、さらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90 m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330 m2、56 m2の会議室2つ2つ控室通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1 mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道結ばれていた。この地下壕では後に、終戦決め2度御前会議開かれた戦後御文庫附属庫昭和天皇意向修理保存されることなく朽ちるままになっている。しかし定期的に写真映像など記録はとられており、戦後70年にあたる平成27年8月にはデジタル音源化され玉音放送とともに映像写真公開された。 敗戦後1948年昭和23年7月1日宮城の名称は廃止され皇居呼ばれるようになった1952年昭和27年)からは宮内庁庁舎最上階3階)を仮の宮殿とした。 なお日本占領した連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の指令日本国憲法施行により、戦前戦中皇居管理した宮内省宮内府経て現在の宮内庁改組された。皇居警備陸軍近衛師団宮内省皇宮警察から警視庁皇宮警察部移管された。 戦後暫くの間焼失した宮殿再建行われなかった。この理由について、昭和天皇侍従長務めた入江相政によると、「お上昭和天皇)は戦争終了後、『国民戦災為に住む家も無く暮らしままならぬ時に新し宮殿造ることは出来ぬ』と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災消失した宮殿などの再建待ったをかけていた」と述べている。[要出典] 昭和30年代入って日本復興一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年昭和34年)、皇居造営審議会答申に基づき、翌1960年昭和35年)から新し宮殿の造営始められた。宮殿いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇御所とは接続させず、御所宮殿別々に造ることとなった。まず1961年昭和36年)、昭和天皇および香淳皇后住居として皇居吹上地区御文庫隣接・組込まれ建設され吹上御所完成した新宮殿明治宮殿跡地1964年昭和39年着工し1968年昭和43年10月竣工同年11月14日落成式挙行され、翌1969年昭和44年4月から使用された。なお吹上御所は、1993年平成5年12月9日に、皇太后香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所改称された。 明仁天皇皇后美智子いずれも当時)は、即位後も暫く引き続き赤坂御所居住しながら皇居宮殿通っていたが、皇居吹上地区一角新たな御所建設され1993年平成5年12月8日から使用した

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