特急時代
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「山陽電気鉄道820・850形電車」の記事における「特急時代」の解説
820形が5編成揃った直後の1949年4月15日のダイヤ改正で、「旅はこれでこそ楽しい」というキャッチフレーズを掲げて、兵庫 - 姫路間を途中長田、明石、飾磨の3駅に停車して所要時間75分、1時間ヘッドで走る特急の運転を開始した。全区間並走する日本国有鉄道(国鉄)山陽本線は、当時西明石以西は非電化で、C53・C59・C62といった大型旅客用蒸気機関車が長編成の客車を牽引する列車ばかりだったので、煙が出ず、しかも当時のスロ34形・オロ35形・オロ41形といった国鉄二等車並みの転換クロスシートを装備しながら特別料金を徴収しない820形は、その快適さ故にたちまち利用者の人気を博した。このため、兵庫・姫路両駅の特急専用ホームにはベンチを並べ、ドアは1か所のみを開けてベンチの列の先頭から乗車するようにしたが、列車到着前から特急を待つ長い行列ができたという。また、この山陽電鉄の攻勢を脅威と見て取った大阪鉄道管理局は神戸 - 姫路間に明石・加古川のみ停車の区間列車を設定、機関区がなく本来は折り返しを想定していない設計の神戸駅で折り返しを行うため、列車を一旦は転車台の設置された東灘まで回送し、牽引機をそこで転向して神戸まで再度回送するという無理を行って、本形式による特急に対抗しようとした。もっとも、この時期の国鉄山陽本線は未だ電化区間が姫路に達しておらず、頻度や所要時間などの利便性においても山陽電鉄の後塵を拝していた。国鉄側の劣勢は山陽本線姫路電化が完成し、乗客が煤煙から解放されるまで覆せなかった。 1951年9月に発生した西代車庫の火災では、820形826・827と新造間もない850形854・855の2編成を焼失した。好評のロマンスカーの喪失・不足は営業上深刻な問題であり、両編成とも最優先で復旧策が講じられ、いずれも翌1952年までに川崎車輛で850形相当の新造車体を製造して復旧した。この際、機器が焼損していた826・827編成は同じく焼失した700形712・713の主要機器から台車(DT13S)・主電動機(MT40)・主制御器(CS5)などを流用した上で運用に充当された。 低出力な主電動機を搭載する820形では850形と足並みを揃えてスピードアップを行うことは困難なことから、700形投入後から実施されていた変電所の容量増加と橋梁強化工事が完了した後、1954年から1956年にかけて、820形の主電動機出力増強(93.3kW→110kW級)と歯車比の変更を実施して、850形と同一の性能とした。
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特急時代
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京都線の看板車両として特急や急行を中心とした運用に充当された。当初は6編成分が製造されたが、1966年に追加で1編成が製造された。2800系の評判は良く、当初5両編成であった京都線特急は8両編成にまで増結された。鉄道ファンの間では、特急の標識板を左右に掲げた2枚看板も好評であった。 1971年11月28日、梅田駅の京都線ホーム移設完成に合わせて京都線特急は再びスピードアップを行い、梅田 - 河原町間38分運転となった。1972年10月には8両編成運転を開始、1972年8月には全車が冷房車となり、1973年3月には全編成が8両編成となった。最盛期には1日900kmを超える運用も存在した。 1971年に京阪が冷房・カラーテレビ付きの3000系(初代)を導入し日中以降15分ヘッド化、国鉄も1972年より急行列車用の153系を新快速に転用、日中15分間隔のパターンダイヤと京阪間最速(新幹線を除く)の29分運転を実現したこともあり、鉄道による京阪間移動需要は更に拡大し、1975年から1978年にかけての6300系の増備に伴い、2800系は3扉ロングシート化されて急行・各駅停車用に格下げされた。2扉クロスシート車としての2800系の運用は、1978年9月25日が最後となった。2800系の京都線特急車としての運用は長いものでも15年、短いものだと5年に満たない短期間で終了することとなった。
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特急時代
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本系列の第1陣は1951年4月2日より営業運転を開始し、以後順次増備が実施されて従来の1000系を置き換えていった。 登場当時のヘッドマークは丸型であったが、1952年7月17日より鳩マークに変更。このマークは京阪線沿線に所在する石清水八幡宮で神勅の使いとされる鳩にちなむといわれている。ヘッドマークは懸賞で公募され、応募作からの選考によりこのデザインが決定された。 なお、第3次車4両については出場時に一時的に車体の形式表示を簡略化した特殊な表記を採用した。たとえば、1709号車だと「7-9」といった具合である。この試みは長続きせず、約1年後に通常の表記に戻されている。1953年8月には1800系が登場し、この時より同系と、また、のちには1810系とも混成されるようになり、左右非対称であった標識灯が左右とも腰板部に設置するように改められている。
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