温泉の歴史とは? わかりやすく解説

温泉の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/11 06:26 UTC 版)

サン=ネクテール (ピュイ=ド=ドーム県)」の記事における「温泉の歴史」の解説

サン=ネクテール・ル・バには、40箇所上の源泉がある。水温56にもなる温泉水は、腎臓疾患効能があるとされている。 サン=ネクテール・ル・オーの温泉は、既に古代には利用されていた。かつてのローマ浴場にあった浴場跡、プール跡、温泉跡を見ることができる。観光地となっているコルナドール洞窟では、テピダリウムカルダリウム、2箇所保存状態良い浴場プール風呂桶を見ることができる。いくつか円形そのほか長方形の、40個以上のコンクリートの塊が、1825年にコルナドール山の切り出し場所の洞窟発見された。これらは1mの深さがあった。 サン=ネクテール・ル・バ近くのグロ・ブイヨン水源タンブール水源は、温泉調査一環として17世紀言及されている。しかしそこでの温泉設備ローマ時代設備よりもはるかに原始的な時代のものだったそれぞれの温泉設備は、ドーム天井覆われ簡素なプールで、道もなければ病人収容する方法もなかった。 サン=ネクテール・ル・バ最初スパ1810年頃、タンブール水源所有者息子ジャック・マンドンによって設立された。これには基本的な浴場に2箇所滞在設備備えたもので、興味そそられるものではなかった。1812年、ラモン・ド・カルボニエール知事によってマルコン博士検査医師任命された。1817年頃、サン=ネクテールスパとして登録された。対象となる主な患者小児青年リューマチ患者不妊に悩む女性サン=ネクテールは『子宮』と呼ばれ評判高かった)、腎臓問題抱えた患者いわゆる蛋白尿であった。しかし当時医師は、こうした症状分析必要な生化学訓練受けていないばかりか新たな世代医師たちがスパにやってきて腎臓疾患治療評判を得るまで、こうした能力会得することに消極であった1820年代、マンドンはスパ設備再建した低層部分や、既存設備の東半分といった、当時構造今でも残る。1820年代初頭、マンドンに雇用されていた浴場ギャルソンのボエットがさらに3つの水源発見した。ロシェール水源、ボエット水源、サン・セゼール水源である。1824年にボエットは第2の温泉施設建設し、その名は1890年まで続いた1832年には第3スパセール氏によってコルナドール山に設置され1841年にはその近郊にジョゼフ・マンドン(ジャック・マンドンの子)によってオテル・マンドンが開業した1870年、ジョゼフ・マンドンの子エドゥアール・ヴェルスピュイが温泉ホテル獲得した1873年サン=ネクテールの塔や鐘楼修復のため、歴史文化財の建築家ルイ・クレマンタン・ブリュイエールがサン=ネクテールへやってきた。ヴェルスピュイは彼に、コルナドール温泉前に三角ペディメント備えたガラスドームの大ホール建設させた。そこでは浴場ショー見られ浴場正面ヴィラ沿いに庭園つくられた。シャンペイへ向かう道路沿いにルージュ水源のパヴィヨンが建設された。住民たちはハイドロテラピーが受けられるよう自宅整備しホテル拡大されさらに宿泊施設の数が増加した。この繁栄は約20年続いた。しかし、スパ所有者たちは、自らが経営するホテル収益成長目的としていた。彼らは温泉を、ホテルを客で埋めるための方法というよりむしろ、ともに成長する要素として設計していた。こうした短期的展望によって、サン=ネクテール・ル・オーの温泉行き詰った。 オテル・ボー・シト オテル・ボー・シトと教会 Le presbytère. サン=ネクテール・ル・オー コミューン役場 1865年、ジョゼフ・マンドンの弟ジュールは、ボエット・ロシェットにサン=ネクテール・ル・バの温泉与えた。ボエット・ロシェットは、1879年頃に息子のヴォージー・ボエットに指揮ゆだねた。ヴォージー・ボエットは設備修復し収容数倍増させた。 パリ銀行家金融業者のブロカールは、スパ・グループやサイヤン平原草地買収しサン=ネクテールを『レーヌ・デュ・マシフ・サントラル』(中央山地女王)に変換することを提案した。けれども一部オーナーたちが反対し、ブロカールはル・ブルブールやロワイヤ、そしてシャテル=ギヨンのような投資成果受け取計画放棄してしまった。ヴォージー・ボエットは妻と別れ、いまや廃止されてしまったボエット温泉替わる、より新しく現代的な施設のための計画遂行ができなくなった資産清算公にされ、1890年頃には公売対象になった新しくオーナーとなったジャン・ジロードンは、自ら湯治客を誘致する責務負った。そして10年以内に、サン=ネクテール・ル・バは真のスパ変容した。ボエット浴場のあった場所に、グラン・テルムが建設された。ローマ式浴場拡張された。グラヴィエール湿地購入して公園として整備した。グラン・オテル・デュ・パルクが建設された。これは所有する山の大部分削ってつくられた。グラヴィエール公園近くには数軒の別荘建てられた。ドルメンのある山を購入したジロードンは、そこに植林行った新し公園と、谷の反対側との間に高架橋建設され交通チャンネルとなった1890年には近くカジノ建てられた(1937年火事消失した)。クーズ川に小さな水力発電所建設され生産され電気カジノ供給された。 ヴィラ・リュス グラン・オテル・デュ・パルク、現在は個人所有 ヴィラ・ド・ロシェール オテル・レジーナ カステル・マルグリット 1911年スパへの道を修復する計画は、資金不足失敗してしまった。1921年サン=ネクテール温泉社(La Compagnie Thermale des eaux de Saint-Nectaire)はオランダ会社買収された。しかし計画あまりに野心的すぎて失敗してしまった。ベルギー企業温泉社を買収し、オテル・デュ・パルクを主として植民地から帰還した軍人滞在療養施設転換させた。スパは後に自治体獲得した第二次世界大戦は、施設財政悪化させ、スパ徐々に衰退した1957年スパ訪れた観光客はわずか4447人であった1969年、コルナドール山のホテル老朽化のため取り壊された。 1978年新たに現代的なスパ建設された。放棄されていたグラン・テルムは、観光事務所設置するため1993年修復された。

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温泉の歴史

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モン=ドール (ピュイ=ド=ドーム県)」の記事における「温泉の歴史」の解説

町は主としてスパの町として知られている。ケルト人ローマ人自分たちの健康のためにオーヴェルニュ山地利用していた。 中世はこうした慣習は、モン=ドール除いて廃れつつあったが、モン=ドールでは肺やリューマチ疾患療養利用されていた。往来無料であり、人々集った19世紀新たに生まれた資本主義が、自然の豊かさや、ラ・ブルブールやモン=ドール関心持ち1830年代以後成長していった。カジノホテル療養施設沿いに建てられた。そこで湧く国内で最も無水ケイ酸含んでおり、さらにガス炭酸含み温度38から44の間であった喘息呼吸器疾患リューマチ治療が行われた。また、鼻茸など副鼻腔炎の手当て行われた頻繁にモン=ドールスパ通った著名人には、セヴィニエ夫人ミラボー侯爵ジョルジュ・サンドアルフレッド・ド・ミュッセシャルル・ノディエオノレ・ド・バルザックアナトール・フランス、マリー・ド・オエンゾレルン=シグマランジャン、メアリー・オブ・エディンバラマルセル・プルーストマリ・バシュキルツェフジョルジュ・クレマンソーらがいる。 さらに、19世紀初頭フランス王家の姫君2人モン=ドール滞在したルイ16世王女アングレーム公爵夫人と、ベリー公夫人である。

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