東明王と朱蒙とは? わかりやすく解説

東明王と朱蒙(東明聖王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 03:33 UTC 版)

東明王」の記事における「東明王と朱蒙(東明聖王)」の解説

夫余高句麗民族的に本支関係にあり、同一民族であるという主張の根拠として、夫余東明王説話高句麗朱蒙東明聖王説話が同じ(類似一致)であるという指摘がなされ、このことから夫余高句麗同一民族であると強調される夫余東明王高句麗朱蒙の関係について最も早く指摘したのは那珂通世である。那珂通世は『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王)、『魏書』の朱蒙東明聖王)、それと『論衡』出てくる夫余東明王同一人であり、同音転訛からくる異訳であり、本来東明高句麗始祖であったが、『論衡』間違って東明夫余始祖としたとした。根拠として、『論衡』では「北夷橐離国」の王から夫余東明出生したとなっているが、『魏略』には「橐離国」(たくりこく)を「槀離国」(こうりこく)とあることから、「橐」(たく)は「高句」の誤字であり、正しく『論衡』東明王は北夷高句麗から夫余出たことを、夫余から高句麗出た『論衡』筆者本末転倒した、つまり東明王高句麗建国者であり、夫余同様の説話存在するのは中国誤伝斥けた。李成市によると、那珂通世学説その後の研究多大な影響及ぼし基本的に北朝鮮韓国学界那珂通世学説支持している。この那珂通世学説に対して内藤湖南は、『翰苑』注所引『後漢書』に「北橐離国」とあることから「槀離」(こうり)ではなく、「橐離」(たくり)が正しいと批判した内藤湖南は、夫余東明王高句麗朱蒙モチーフである太陽などの霊気感じて子が生まれ始祖説話は、東北アジア諸民族共通のものであり、それがただ変化しただけであり、これらの説話共有する諸民族は、同一民族か否か不明であるが、同一説話をもった民族であるとするにとどめ、橐離国松花江支流居住したダウール族のことであり、『論衡』東明王説話そのまま夫余建国説話認めていとしている。 白鳥庫吉は、夫余東明王説話高句麗朱蒙東明聖王説話は、始祖名と形式と内容同一異なっているのは活動舞台であり、夫余東明王説話歴史的地理的に不都合はないが、高句麗朱蒙説話は、時間的地理的に成り立ち難いため、「高句麗夫余均し濊貊種であるが、夫余とは同族でない」として、高句麗東明聖王説話は、夫余東明王説話改作したものであり、その目的として、長寿王時代高句麗夫余包囲された際に、夫余始祖高句麗始祖であるとすることにより、夫余族に安堵与えるためと主張している。 那珂通世内藤湖南白鳥庫吉各説異なるが、夫余東明王高句麗朱蒙同一人物乃至は同一内容異表記ということは共通している。対して池内宏は、夫余始祖東明王であり、朱蒙高句麗始祖であることを立証し夫余東明王高句麗朱蒙峻別なければならない主張し白鳥庫吉時間的地理的に成り立ちいとした高句麗朱蒙説話は、内容的に歴史的事実反映しており、夫余東明王説話高句麗朱蒙説話それなりの一致は、夫余高句麗民族的本支関係に基づき夫余東明王高句麗朱蒙別人であると主張し高句麗時代には夫余東明王高句麗朱蒙混同されておらず、百済新羅高句麗三国統一後の『旧三国史』編者過誤から夫余東明王高句麗朱蒙同一人とされたことを明らかにした。かかる事実から李成市は「一方説話誤伝であるとしてその説話存在否定することは出来なく」なり、「夫余高句麗各々始祖異にし、かつほぼ同様の建国説話があったとみなけばならないことが確認される」と述べている。ただし池内宏は、夫余東明王説話高句麗朱蒙説話一致していることをもってそのまま夫余高句麗民族的本支関係を認めることは学術的でなく、民族移動せず、ある民族発生した説話が、他のある民族伝播することは多々あり、夫余高句麗民族的本支関係を夫余東明王説話高句麗朱蒙説話一致のみによって考えるべきではないと戒めており、結果として池内宏は『魏志』の「東夷の旧語」史料根拠にして、夫余高句麗民族的本支関係を認めるが、李成市は「『魏志』の当該史料極めて疑わしい伝聞推量の域を出ない事柄である」と述べている。 夫余東明王説話高句麗朱蒙説話形式内容が同じであるという主張に対して最重要部分が全く異なることを指摘したのは三品彰英であり、三品彰英朝鮮満州始祖説話神話)の基本構成を、卵生型・箱舟漂流型・感精型・祖型の4形式類別し、『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王説話は、史料上朝鮮最古卵生型であり、卵生前件として天帝の子中国河伯の娘の柳花夫人結婚するなど人態化が進化し、かなり発展した説話であり、感精型である夫余東明王説話卵生型である高句麗朱蒙説話異なり卵生構成建国説話を持つ高句麗新羅加羅は、卵生構成が最繁栄している台湾などの南方諸族に繋がっていることを示しており、高句麗朱蒙説話は、南方諸族境域所属し漢族とも接す濊貊族の黄海沿岸原住地から伴ったものと指摘している(ただし三品彰英は、高句麗朱蒙説話北方日光感精構成複合していることは認めている)。 『広開土王碑』(414年建立)には、高句麗出自北夫余有り明記され435年平壌訪問した李敖も「高句麗者出於夫余」としており、5世紀初頭高句麗人の夫余自称史料登場し夫余高句麗民族的本支関係が明確化されるが、白鳥庫吉は、高句麗人の夫余自称事実性を疑問視しており、東夫余北夫余広開土王臣民となり、高句麗の南にある百済含め高句麗夫余族に包囲され夫余族を懐柔するため、長寿王夫余東明王説話利用し、自らが夫余族の本家本元であることを自称し、東夫余北夫余に対して安堵させ、百済に対して百済征討正統性を得ることを画策して夫余出自自称した主張した李成市は、これらの高句麗がおかれた国際状況処理するため、政治戦略として夫余出自果たした事例として『広開土王碑』の以下を挙げる。 廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討, — 広開土王碑 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります國岡上廣開土平安好太王碑 この記事は『広開土王碑冒頭の以下と呼応している。 惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘天帝之子。母河伯女郎。 — 広開土王碑 このように高句麗の東夫余征討正統性として、北夫余出自自称する鄒牟王が持ち出され、王の親征行為正統化する根拠となり、現実政治夫余出自重要な意味を果たしている。 高句麗支配者集団墳墓積石塚である一方夫余支配者集団墳墓は土墓・木墓であり、墓制に関して夫余高句麗違い歴然としており、田村晃一は、墓制違いこそ高句麗夫余から分派したという主張成立しないことを示していると主張し李成市は、夫余高句麗同一民族であるという根拠は、高句麗人の夫余自称によってのみであり、これらも高句麗政治戦略として夫余出自称したことが指摘され、「夫余高句麗建国伝説同一とみるのは、後世人びと混乱曲解による誤認」「これらの伝説から両族の関係を導きだすことはできない」「文献資料のうえで、夫余高句麗民族関係同一とする確固とした根拠はない」として、高句麗王は、有力な地縁的集団五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、婁部)からの超越化と王権正統化のイデオロギーとして出自夫余求めたことは間違いなく240年代の魏の毌丘倹による侵攻340年代慕容氏侵攻壊滅した高句麗国家再建強大化した時期は、夫余族の南下高句麗への流入時期該当し夫余族こそ高句麗国家再建強大化の中心的担い手であり、また高句麗王支えた中核的存在であり、夫余東明王説話酷似する高句麗朱蒙説話創作は、これら夫余族の高句麗支配層への参与があってこそ可能であったろうと指摘し、また高句麗4世紀以降国家発展には、牟頭婁一族などの夫余族の高句麗流入者が無視できない役割果たしたが、牟頭婁一族の族祖は北夫余人で、鄒牟王に従い南下し先祖代々高句麗王仕え美川王故国原王時代慕容氏北夫余攻撃際し中興の祖冉牟活躍し北夫余方面支配冉牟の子孫が受け継ぎ後代牟頭婁至ったが、冉牟は、『三国史記』の美川王即位紀に美川王試練をともにした人物として登場するが、4世紀初頭活躍した冉牟は、3世紀末の慕容氏攻撃により高句麗流入した夫余族が、慕容氏との戦争など高句麗王多大な貢献行ったことを象徴し、このことは高句麗王夫余出自名乗ることにより、高句麗王牟頭婁一族との近親感一体感形成慕容氏北夫余攻撃不当性、慕容氏との戦争正当性慕容氏との戦争における勲功の一層の顕彰北夫余対す牟頭婁一族支配正当性強固となり、3世紀後半慕容廆攻撃により大打撃被った夫余南下は、隣接する高句麗にとって統治看過しえない問題であり、4世紀初頭にかつての夫余中枢領有化した高句麗はその統治牟頭婁一族などの夫余族が抜擢されたことが考えられ新附夫余族との融合夫余旧領占有正統性歴史的根拠主張する根拠として、高句麗王夫余出自政治戦略的に有効であったことは間違いなく、「かかる状況のもとに生まれたのが始祖鄒牟の建国説話でなかったかと思われる」と指摘している。 夫余高句麗民族的本支関係は後世に至るほど強調され、そのうえ夫余高句麗始祖混同されており、『三国史記高句麗本紀には、 始祖東明聖王,姓高氏,諱朱蒙〈一云鄒牟 一云衆解〉 — 三国史記高句麗本紀 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國史記/卷13 とあり、朱蒙東明王の諱となり、夫余高句麗始祖同一人物となるが、夫余高句麗始祖混同高句麗滅亡後生じたことは判明しているが、詳細不明である。しかし池内宏は、夫余高句麗始祖同一人物となったのは、統一新羅後の撰者不明の『旧三国史』としたが、誤認なされた経緯については言及がなく、津田左右吉は、後代高句麗王王名以外にも諱・称号付いた慣例倣った新羅人所為としつつも東明とした理由不問付し白鳥庫吉は、夫余東明王説話高句麗朱蒙説話酷似していることからきた後世史家誤りとした。 李成市は、後世史家夫余高句麗始祖同一人物として、高句麗始祖措定した根拠となったのは『梁書』高句麗伝であると指摘している。 『梁書』高句麗伝には以下ある。 高句驪者,其先出東明。 — 梁書高句麗伝 其後支別爲句驪種也。 — 梁書高句麗中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります梁書/卷54#東夷諸戎 冒頭で「高句驪者、其先出東明」として、次に夫余東明王説話転載して末尾で「其後支別爲句驪種也」と結語して民族起源叙述したが、冒頭の「高句驪者、其先出東明」こそ、後世史家夫余高句麗始祖同一人物として、高句麗始祖措定する根拠となったではないかとして、『梁書』高句麗伝の記事は『魏志』を典拠しながら編者の意図から書き改められており、『梁書』高句麗伝は、夫余高句麗民族的本支関係を強調する叙述が「作為的」なほど存在することを指摘している。 例えば『魏志』にある以下の記事は、 以十月祭天,國中大會,名曰東盟。 — 魏志 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國志/卷30#東夷 『梁書』には、 以十月祭大會,名曰「東明」。 — 梁書 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります梁書/卷54#東夷諸戎 とあり、同様の記事高句麗民族的祭祀『梁書』では夫余東明王祭祀附会して祭祀名が改変され夫余東明王無関係高句麗祭祀名が夫余東明王同一名に改められており(白鳥庫吉は、高句麗の「東盟」は、「東方会合し盟約するとか、東方盟約するとかいう意義から命じた祭祀の名」の漢語であり、東明王無関係であることを明らかにしている)、この改変夫余高句麗民族的本支関係を強調する目的で「周到にはかられ」、『梁書』高句麗冒頭夫余東明王説話をもってきたのも夫余高句麗民族的本支関係を強調する目的であり、李成市は、魏の毌丘倹による侵攻があった3世紀半ばまでは夫余高句麗民族的本支関係は事実とは考えにくい、夫余東明王説話高句麗朱蒙東明聖王説話始祖異なり内容形式最重要部分異なり、このことから夫余高句麗民族的本支関係の根拠とならない5世紀初頭高句麗人の夫余自称史料登場し夫余高句麗民族的本支関係が明確化さるが、政治戦略として夫余出自自称した結論付けている。

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