東明王物語と徐偃王物語の類似性
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「東明王」の記事における「東明王物語と徐偃王物語の類似性」の解説
『後漢書』東夷伝に「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐の偃王に命じてこれを主せしむ」とある。管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられた。蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は今の徐州付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた。『後漢書』の注釈を完成させた唐章懐太子は、この徐偃王の部分の注に『博物志(中国語版)』を引用、徐偃王物語が記されている。そこに記された徐偃王物語は、夫余あるいは高句麗の始祖王の東明王物語と共通する。 徐偃王物語 徐君の宮人は妊娠して卵を生んだ。これを不詳とみなして、卵を水辺に棄てた。 孤児や独り身の者たちを母のように養育する者がおり、彼女は鵠蒼という名の犬を飼っていた。鵠蒼は水辺に食を求めて、棄てられていた卵をくわえて彼女のところへ戻った。彼女は不思議に思い、卵を覆うようにして暖めた。 卵から子が生まれたが、通常の子と違い寝そべるように横たわって生まれたため、名を偃(横たわる)とつけた。 徐君の宮廷はそのことを聞き、子の誕生の次第を調べたうえで、宮中に迎えて養育した。 子は成長すると仁智を備え、先代の徐君の後をつぎ徐国の君となった。 その後、鵠蒼は死に臨んで、頭には角が生え、尾は九尾となり、黄竜の化身だった。鵠蒼のまたの名は后蒼であり、偃王が鵠蒼を葬った場所は、徐国のなかであり、現在も「狗壟」が残っている。 徐王が国を治めにつれ、その仁義は有名となり、偃王は周へ船で行きたいと思い、陳と蔡の間に溝(運河)を通じさせたが、その時に朱色の弓矢を得た。その弓矢を得たことで、天瑞を得ることができたとして、自分の名を号として徐偃王と自称した。 付近の淮・江の諸侯で偃王に服従する者が三十六国に及んだ。天下を支配していた穆王はこれを聞き、使者を楚に派遣して偃王を伐たせた。偃王は愛民の心があり闘わずして、楚に敗北した。 敗北した偃王は北走し、彭城国武原県に逃れた。万を超える人びとが偃王に随って移住した。それでその山の名を徐山とし、その山上に石室の廟をたてた。 廟には神霊が宿り、人びとは祈るときには文を書いて割符のようにするというが、世代を隔てた古いことなので詳細を明らかにし難い。徐城の外には徐君の墓があり、昔、季札はその場所で剣を解いたが、それは心の許すところに違いたくないということからである。 東明王物語 (A)北方に橐離国があり、その王の侍婢が妊娠した。王は侍婢を殺そうとした。(B)侍婢は、鶏の子(卵)のような「気」があって、私に来たり下ったので、妊娠した、と告げた。その後に子が生まれた。(C)王はその子を猪(豚)小屋の中に捨てさせたが、猪が口でその子を吹いた。(D)その子を馬小屋に移し、馬に踏み殺させようとしたが、馬も気をその子に吹き付け、死なせなかった。(E)王は、天子となるのではないかと疑い、その母に引き取らせ、召使いに養育させた。(F)その子を東明と名づけ、牛馬を牧する仕事につかせた。(G)東明は、弓を射ることに優れていた。(H)王は、東明が国を奪うことを恐れて、殺そうとした。東明は、逃れて南へ走り、掩淲水に至った。(I)東明が、掩淲水の水を弓で撃つと、魚鱉が浮かび上がり橋をつくった。東明は、それにより渡ることができたが、魚鱉はすぐに解散したので、追兵は渡ることができなかった。(J)よって東明は、夫余の地に都をつくり王となった。 考証 鳥の卵と王の誕生の物語というと、玄鳥が落とした卵を簡狄が吞んで、殷始祖契を生んだという『史記』巻三・殷本紀の史料が有名である。簡狄という女性が卵を呑んで妊娠したとあるが、これは「卵生説話」の変形とみてよい。東明王物語の深淵は殷始祖契の誕生物語、それと同根から発生した徐偃王物語、周始祖后稷の物語に求めることができる。(C)(D)は、周始祖后稷の誕生物語と酷似していることはよく知られる。(B)の卵のような気により妊娠するのは、(J)の簡狄の妊娠事情に通じる部分があり、直接的表現は徐偃王物語の1.にみられるが、逆に、徐偃王物語1.の卵を生む形が原型であり、そこから(J)の卵を呑んで妊娠する、東明王物語(B)の卵のような気により妊娠するなどの派生型が生じている。(G)(I)の弓は、徐偃王物語の7.にみえる。(H)(I)の水は、徐偃王物語の1.の水浜や、7.の溝の要素である。徐偃王物語に直接関係する部分は残されていないが、東明王物語の(I)の魚や鱉が橋をつくる話も中国に先例を求めることができ、『竹書紀年』穆王三七年条に「伐楚。大起九師。東至於九江。比黿鼉以為梁」とあり、穆王は大亀や大鰐を𠮟りつけて梁すなわち橋をつくらせており、東明王が弓で水面を叩いて(ということは水神を弓で脅しつけた結果)、亀や鱉が橋をつくる話に酷似する。袁珂はこの話は楚を伐つ時のことではなく、徐偃王打倒の時とする説を支持しており、徐偃王物語には穆王との戦いの場面があり、大亀や大鰐が橋をつくる話が元来は存在していたかもしれない。 徐偃王物語の1.は「卵生神話」であり、三品彰英によりその分布や意味が検討されており、「卵生神話」はインドネシアを中心に、中国沿岸部から朝鮮半島、北東アジアに分布し、中国沿岸部は東夷と南方系住民が境を接して居住、この地域一帯に「卵生神話」などの海洋民族文化が流布していた。それが春秋戦国時代から漢人が東進してきたため、東夷は北へ、南方系は南へ押し分けられた。なお、本来、殷は東夷といわれ、「卵生神話」はこの地域に存在した可能性もある。 殷末周初の東夷を解明した古典的かつ基本的な研究に、貝塚茂樹の研究がある。周武王は殷紂王を打倒したが、殷の祭祀は殷の旧領土に封じた武王の子の武庚禄父に継承させた。武庚禄父を一人の人名とする『史記』の説があるが、『論衡』などの二人の人名説が妥当である。武庚は殷の故都(安陽)に封じられ、禄父は梁山出土の銅器の銘文からみて、梁山に封じられた。武庚は周に反乱、禄父も加担したが、周公旦や召公奭に平定された。周公旦や召公奭は、山東渤海まで遠征、恩賞として周成王は召公奭に徐地域を与えたが、実際に徐地域を支配したのは、召公奭の長男の燕侯=匽侯旨であり、燕侯=匽侯の号である「燕(えん)」「匽(えん)」は、旨が拠点とした「奄」(魯の近隣)の「奄(えん)」による。なお、燕国出土銅器の銘文は「燕」を「匽」と記している。この匽侯旨が投影、伝説化されたのが徐偃王である。召公奭は、『史記』に燕国に封じられたとあるが、易州出土の銅器の銘文からみて、これは燕侯旨が易州に封じられた史実を修飾したものである。燕侯旨が易州に移封されたのは、周公旦の長子の伯禽が匽つまり奄に封じられたためである。『史記』は周公旦が魯(匽つまり奄)に封じられたとするが、これは伯禽の史実を背景とする修飾である。殷の祭祀が梁山で継承されているから、殷始祖の契の「卵生神話」もこの地に継承された。周初に梁山地域に封じられた燕侯=匽侯旨が伝説化されたのが偃王物語の徐偃王である。旨は兄である召公奭に代わって徐地域を支配、支配に従い周始祖の后稷物語はこの地に広がり、殷や周の始祖物語は、このような徐地域に浸透、徐偃王物語に影響を与えた。燕侯旨が燕国南部の易州に移封されると、旨の伝説的投影像である徐偃王物語も燕国に広まる。燕国が遼西から遼東へと支配を広げるに従い、徐偃王物語の伝達範囲も広がる。さらに本来東夷の中心とみなされていた匽・燕が北方地域名として定着すると、東夷の範囲も移動した。燕が東方の遼東などに支配を広げると、東夷世界も東方へ移動、中国東北部から朝鮮半島を含む地域名となる。東夷世界の移動・拡大を鑑みると、東夷にあって覇を唱える王は、その移動・拡大の原動力である燕国の始祖物語に似せて、自己の始祖物語を作為するのは当然であり、徐偃王物語と東明王物語が共通要素をもつ背景である。こうした物語の継承は、匽(曲阜)から燕へ旨が移封されたことに典型的であるように、人的集団の移動を背景としている。秦漢帝国の出現にともなう中国から北東アジアへの人的集団の移動が、東明王物語を成立させる要素だった。貝塚茂樹は、燕侯旨の「奄」初封時に、箕侯すなわち箕氏を領内に安堵したという事績が、燕国遺民によって伝説化して朝鮮に伝播されたものが箕子朝鮮とする。燕国の始祖の燕侯旨が保護した箕子の事績が物語化して東夷世界に広まるのと軌を一にして、燕侯旨の存在を投影した徐偃王物語が東夷世界に広まった。
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