岩槻・越谷周辺に残る足跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:31 UTC 版)
ファイル:Kazama-Kuroya-map.png 岩槻・越谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図 元亀3年(1572年)5月7日付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は、岩井弥右衛門尉らに、風間の受け入れの準備をさせるよう指示した。 北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)原文仮訳風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、(虎朱印)壬申(元亀3年・1572)五月七日 笠原藤左衛門尉奉岩井弥右衛門尉殿中村宮内丞殿足立又二郎殿浜野将監殿立川藤左衛門尉殿 風間が来たる7月まで六ヶ村に配置させられることになりましたので、宿以下のことを、間違いないように指示してください。万が一、知行分に対して少しでも狼藉に及ぶことがあれば、まず風間に相談して、承諾しない場合は、書き付けを小田原へ提出するようにと、明確に指示するようにしてください。馬草や薪を調達させることが、間違いなくできるようにしてください。以上(以下省略) 『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、武蔵国多摩郡小宮領檜原村の旧家・百姓(吉野)軍次の家伝文書2通のうちの1つで、その先祖は後北条氏の配下で、天正元年(1573年)に没した吉野対馬守盛光といい、その子・九郎右衛門以降も代々「対馬守」を名乗り、軍次は13代目とされている。「吉野対馬守」の受領は、青梅の師岡村の里正となって慶長16年(1611年)に新町村を起村したことで知られる吉野織部之助正清家の家系図にも先祖の名としても見え(ただし諱は「正方」とある)、吉野正清は、忍城主の成田氏に仕えていたが、後北条氏滅亡の後、師岡村へ来て帰農したとされており、『成田分限帳』には他にも成田氏に仕えていた吉野氏の人物の名がみえる。 「笠原藤左衛門尉」は、北条氏政の宿老として、永禄10年(1568)から天正5年(1577)頃、領域担当の奉行として北条家当主から岩付領への取次ぎを担当していた笠原康明とみられている。黒田基樹は、笠原が奉者となっていることから、文書は武蔵岩付領(さいたま市周辺)に宛てたもので、宛名にみえる岩井氏ら5人は岩付衆、と推測している。 「岩井弥右衛門尉」は、自序により天保11年(1840年)頃成立の、越谷宿大沢町の名主・江沢昭融が著した地誌『大沢町古馬筥』に、以前、新方領向畑村(越谷市向畑)にあった陣屋の陣屋守で、後に修験となって同村の花向院の住職をしていた人の名としてみえる。天保に近い頃まで子孫の縁者が残っていたが、嫡家は没落しており、天保当時、向畑村字陣屋の百姓・初右衛門の家に伝説的な人物「新方三郎」の肖像画として伝えられてた掛け軸は、実際には岩井弥右衛門の肖像画で、また文化の頃まで花向院には岩井弥右衛門所持の短刀が伝えられていた、とされている。 中村宮内丞:未詳 足立又二郎:未詳 浜野将監:未詳。『埼玉苗字辞典』によれば、「浜野」は武蔵国では利根川流域に多くある姓。永禄3年(1560年)の『関東幕注文』に岩付衆として「浜野修理亮」の名がみえ、また『武家雲箋』所収文書に永禄12年(1569年)の春日摂津守配下の奉行として、永禄年間(1558年 - 1570年)の「高麗文書」に太田資正やその子・梶原景政に従った人物として「浜野弥六郎」の名がみえる。『越谷市史』には、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入国の後、新方領増林村(越谷市増林)に建てられた仮御殿の御殿番をしていたという浜野藤右衛門の子孫の由緒書を載せている。また『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』によると、1982年当時、後出の、始祖が風間出羽守の子という雨宮弥太夫家のあった岩槻・黒谷の約半数は「浜野」姓で、屋号「アブラヤ」で村内の薬師堂を創建した浜野家は、古くから屋号「ケイッカ」から分れた屋号「シモノカタヤ」の雨宮家と交流があった。 立川藤左衛門尉:天正元年(1573年)に後北条氏が与野(さいたま市中央区)の立石甚左衛門と百姓中に宛てた印判状に納税先としてその名がみえ、天正5年(1577年)7月13日付の「岩付諸奉行但今度之陣一廻之定」に、小籏奉行・篝奉行として名前がみえる。天文14年(1545年)に扇谷上杉氏が北条氏康に滅ぼされた後、後北条氏の家臣団に繰り入れられた立川氏の一族の中から、岩付へ配置された人物とみられている。 元亀4年(1573年)12月10日、後北条氏(評定衆・勘解由左衛門尉康保)は、(武蔵国の)「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた。 北条家裁許朱印状写(武州文書12)原文仮訳風間在所被仰付間、すな原ニ者有之間敷被思召処、于今致在宿候哉、百姓迷惑之段申処、無余儀候間、向後風間置事無用候旨、被仰出者也、仍如件、(虎朱印)元亀4年癸酉(1573年)十二月十日 評定衆 勘解由左衛門尉 康保(花押)すな原百姓中 風間の在所を命じられ、すな原には有るべきではないとお考えのところ、今に至るまで在宿しましたので、百姓が困惑しているとのお話を頂き、やむを得ませんので、今後は風間を置かないことにする旨、指示されました。以上(以下省略) 『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、武蔵国足立郡鴻巣領鴻巣宿の旧家・(小池)三太夫の家に伝わった文書で、その先祖は、もと畠山尾張守政長幕下の紀州日高郡小池の領主だったが、先祖・小池主計助が北条早雲に仕えて小田原へ移住し、その子・小池長門守が岩槻市宿に居住、功労があって鴻巣領の原地に砦を築き、天文20年(1551年)9月1日に岩槻市宿から移住して、「市宿新田」と名付けた、とされている。 「すな原」は文書が鴻巣宿の小池氏の家に伝わったことから、『岩槻市史』、『鴻巣市史』、下山『後北条氏家臣団人名辞典』 などは鴻巣市内の地名と推測しているが、黒田基樹「風間出羽守のこと」は「岩付領砂原村(越谷市)」に比定している。 『新編武蔵国風土記稿』によると、埼玉郡の「砂原村」は向川辺領(加須市)と越谷領(越谷市)にある。 天正5年(1577年)2月に北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、「風間同心渡辺新三」からの、内田が定められた軍役を果たしていないとの訴えを却下した旨を伝える朱印状を与えた。 内田孫四郎は、天正元年(1573年)2月に関宿の合戦で戦功があったとして北条氏直の感状を受け、天正2年(1574年)7月に(北条)氏好から太田美濃守時代からの「すな原」の「打明」の領有を引き続き認められていた。 後出の「万代記録帳」にみえる風間出羽守の子・雨宮主水正の子・弥太夫の妻・雲信女(1684年没)は、新方領恩間村(越谷市恩間、『新編武蔵風土記稿』には「岩槻領忍間村」としてみえる)の渡辺氏から嫁いでいる。『越谷市史』 や『大竹の歩み』(抄本) に恩間村渡辺氏の家譜が収載されているが、自序によると、中世の系譜は正保年間の火災で焼失したため、後年、他の渡辺氏の系図を参照して書き継いだといい、「新三」名はみえない。 (推定天正9年・1581年以降に、北条氏政が、この頃、岩槻城主だった)十郎(氏房)に宛てた書状では、夜間の警備を厳重に行うにあたっては前々から準備しておくこと、風間のところへ加勢することが重要であり、「かき」を1里ほど指示すべきこと、「かゝり」を極め、夜中くらいままにしておくように(?)厳しく指示すべきことなどを指示している。 北條氏政〔カ〕書状写(家伝史料6)原文仮訳今日之構肝悪(要カ)之処侯、然者、夜中之仕置極候、兼而不申付儀者、俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候條、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一里計可被申付侯、又かゝりニ極候、夜中くら(暗)く候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハ口惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ(聞)度候、十郎殿へ 今日の構えは肝心なところです。さてそこで、夜間の措置を決めました。兼ねてから言い付けていない事は、急にやるのは難しいものです。昼間でも、厳重に行うことは落ち着いてできないものです。まして夜間のことは、兼ねてからの措置が重要ですので、風間のところへしっかり加勢することが重要です。第一に「かき」を1里(約4km)ほど指示されるべきです。また「かかり」に決めました(?)。夜間暗くなっているままに(?)しっかりと指示されるべきです。くれぐれも、夜分の用心が重要です。通り一遍の覚悟では思うようになりません。また病気は如何ですか。詳しく聞きたいです。十郎殿へ 平山優は、「かき」は「嗅ぎ」(嗅物聞、偵察の忍び)と推測している。
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