岩槻・黒谷の雨宮弥太夫家の先祖
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「風魔」の記事における「岩槻・黒谷の雨宮弥太夫家の先祖」の解説
2006年刊の茂木和平『埼玉苗字辞典』 および下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』 に、岩付城下・黒谷村(さいたま市岩槻区)の妙円寺の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は信濃国水内郡の式内社風間神社から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している。『岩槻市史』 には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある。 江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書) 中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である。雨宮主水正の没年は承応元年壬辰(1652年)で、その子(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗ったとされている。明治8年(1875年)に調査が行われた『武蔵国郡村誌』の黒谷村 妙円寺の項には「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる。 「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は岩槻太田の浄源寺で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている。 黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去したため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた。「万代記録帳」が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先で、雨宮家の継嗣が幼い頃に両親が死去したため、その後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、とされている。 「万代記録帳」が伝わった家とは別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家には、先祖は大坂城で財政の仕事をしていたが、大坂落城のとき、松ブシのミンブサマと一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた。松伏町の石川民部家の祖流については、河内石川氏とする説もあり、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大坂の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた。
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