喜劇役者としての活躍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 喜劇役者としての活躍の意味・解説 

喜劇役者としての活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:08 UTC 版)

笑福亭松之助」の記事における「喜劇役者としての活躍」の解説

小林一三上述落語会先立つ1950年様々なジャンル芸能人集めた宝塚芸道場」を旗揚げし、バラエティーショー公演準備進めており、翌1951年には拠点宝塚映画劇場移し、「宝塚新芸座」という軽演劇劇団模様替えさせた。その年の9月之助は漫才師漫才作家志摩八郎からの封書で、その一座立ち上げ知らされる同じく新芸座の一員になることが内定していた山崎正三の推薦による誘いだったという。月給制に惹かれたことや、同年10月4代目米團治が急逝したことで「あの男弟子にしたら早死にする」と師匠連敬遠され寄席出演機会失いかけていたことなどから、之助は入団決断する1951年11月立ち上げ公演懐かし映画五十年』に活動弁士役でゲスト出演後、之助は新芸座に正式に入り喜劇役者の道を歩んでいく。 入団当初之助は「自分噺家なのか、役者なのか、どうも気持ち整理ができなんだ(引用注=できなかった)」といい、「『噺家やがな』という腹」で、セリフ覚えず出て舞台袖のスタッフ忘れた部分聞きに行くなど、強引な方法笑い取っていた。そのような之助を見た先輩座員三角八重が、「そらあんたは落語家や。そんなつもりでええ加減にやってんねやろけど、今は役者として給料貰うてんのと違うんかいな。それやったら、そのお金取れるだけの芝居やってんか」「落語家やというのなら今すぐ役者をやめて落語家になりぃな」と厳しく叱責した。また、小さな落語会にばかり参加していた之助に対し3代目林家染丸が「もうあんたは(引用者注:役者として北野劇場コマ劇場てな大きな所へ出られるようになってんねんさかい、落語をやる時も場所を選びや」とアドバイスした。これらの体験通じ幼少期親しんだ仏教思想即時即今(常に今この瞬間があるだけだという概念)」を思い出した之助は、「区分小さこだわり」「自分は『芸人』」と意識変え、「芝居をやれと言われれば役者演じ落語をやれと言われれば噺家演じる」と決心した秋田實漫才師グループ新会社上方演芸設立のため宝塚新芸座から退団すると、笑芸出身者座長格のミヤコ蝶々南都雄二之助など、わずか数人になったが、之助は芝居の中でギャグ一手に引き受ける役割になったため「思いきりバカバカしい動きをしたり喋ったりでご機嫌でした」と回想している。 1953年4月、新芸座の人気演目中継する漫才学校』(ABCラジオ)の放送始まり之助は番組ヒットとともに人気タレントとなっていく。蝶々雄二降板後の『新・漫才学校』で構成作家兼務し、これが台本作家としてのキャリア始まりとなったまた、NHKテレビ実験放送時代からドラマ出演しテレビ俳優としてもコンスタント活動しはじめる。1954年10月には、アイスショー宝塚歌劇団スケートチーム」の第1回公演『白雪姫』参加しアイススケート特訓して白雪姫の母役をつとめている。 菊田一夫オファー会社勝手に断ったことをきっかけに、「他人意思自分行動左右される」「サラリーマン役者」の立場疑問を抱くいたった之助は、1958年暮れ突如、新芸座を退団し翌年3月または4月、元は永田キング門下芸人当時興行師をしていた北村ハッピー紹介され吉本興業契約する同社3月に「うめだ花月劇場」を開館させたばかりであり、独自の新たな軽演劇プログラムに出す役者求めていた。之助いわく、昭和中期大阪芸界は「実力さえあれば、なんぼでも替われる。会社より芸人のほうが強かった」という環境であり、これ以降10年間、気の向くままにプロダクション渡り歩いた1959年4月之助は「吉本ヴァラエティ」、のちの「吉本新喜劇」の創設メンバーとなった当時新喜劇には、オリジナル脚本演出担当する者が進行係竹本浩三だけしかおらず、ほとんど役者によるアドリブ芝居進める状態だった。幹部(のち社長)の中邨秀雄のすすめで、之助も「明石光司」(あかし こうじ)のペンネーム脚本書くことになった1959年の、改称吉本新喜劇第1回公演夫婦読本』は之助の作・演出主演である。新喜劇では、一時退社した時期はさんで50本ほど書いた」という。之助のインタビュー収めた4代目林家染丸著書笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』には、「明石光司」作『三寒四温』の全編載せている。 1961年4月松竹芸能新たな軽演劇団の旗揚げのため、契約期間満了控えた之助の引き抜き図った吉本側松竹主催舞台之助を客演させ手打ちにしようとしたが、之助は誘いに応じて松竹移籍した。このとき之助は勘違いから吉本との契約期間1ヵ月残して移籍したため、幹部(のち社長)の八田竹男激怒させている。劇団ミスワカサ・島ひろし率いる「松竹とんぼり座」として発足之助は台本執筆演出平尾晋作花登筺分担し自身役者として出演したワカサ・ひろしが立ち上げ1年退団後、劇団之助を座長据え松竹爆笑劇」と改称する。ここで初代森乃福郎上方柳次・柳太との3組主演公演などを手がけた。 やがて、之助の台本対す会社側の「的外れな注文干渉重なりストレス募らせていったほか、「相談もなく役者入れ替えられ(中略げた箱も1番下段」といった理不尽な扱い堪えかねて、自身台本ではない公演最中に「こんな芝居おもろないやろ、笑うな」と絶叫する。これが新聞載りスキャンダル発展したことをきっかけに、3年契約期間満了をもって退社した。のちに松竹は合わなかったと回想している。 その1964年4月之助は千土地興行後身日本ドリーム観光移籍千日劇場落語演じかたわら軽演劇の「松ちゃん劇団」を率いたほか、大阪劇場公演出演者演出家兼任したまた、この時期3代目桂米朝司会大喜利番組お笑いとんち袋』にレギュラー出演し、2代目露乃五郎3代目桂米紫4代目桂文紅3代目笑福亭仁鶴とともに実験寄席」を主宰すると、高座の左右に置いたスピーカーから効果音流したり、当時洋画落語仕立てて演じるなどの演出試み、若い観客増やした。なお、千土地移籍後も、第2期の「松竹家庭劇」にゲスト参加した

※この「喜劇役者としての活躍」の解説は、「笑福亭松之助」の解説の一部です。
「喜劇役者としての活躍」を含む「笑福亭松之助」の記事については、「笑福亭松之助」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「喜劇役者としての活躍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「喜劇役者としての活躍」の関連用語

喜劇役者としての活躍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



喜劇役者としての活躍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの笑福亭松之助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS