喜劇役者としての活躍
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「笑福亭松之助」の記事における「喜劇役者としての活躍」の解説
小林一三は上述の落語会に先立つ1950年に様々なジャンルの芸能人を集めた「宝塚新芸道場」を旗揚げし、バラエティーショー公演の準備を進めており、翌1951年には拠点を宝塚映画劇場に移し、「宝塚新芸座」という軽演劇の劇団に模様替えさせた。その年の9月、松之助は漫才師・漫才作家の志摩八郎からの封書で、その一座の立ち上げを知らされる。同じく新芸座の一員になることが内定していた山崎正三の推薦による誘いだったという。月給制に惹かれたことや、同年10月に4代目米團治が急逝したことで「あの男を弟子にしたら早死にする」と師匠連に敬遠され、寄席出演の機会を失いかけていたことなどから、松之助は入団を決断する。1951年11月、立ち上げ公演『懐かしの映画五十年』に活動弁士役でゲスト出演後、松之助は新芸座に正式に入り、喜劇役者の道を歩んでいく。 入団当初の松之助は「自分は噺家なのか、役者なのか、どうも気持ちの整理ができなんだ(引用注=できなかった)」といい、「『噺家やがな』という腹」で、セリフを覚えずに出て舞台袖のスタッフに忘れた部分を聞きに行くなど、強引な方法で笑いを取っていた。そのような松之助を見た先輩座員の三角八重が、「そらあんたは落語家や。そんなつもりでええ加減にやってんねやろけど、今は役者として給料貰うてんのと違うんかいな。それやったら、そのお金が取れるだけの芝居やってんか」「落語家やというのなら今すぐ役者をやめて落語家になりぃな」と厳しく叱責した。また、小さな落語会にばかり参加していた松之助に対し、3代目林家染丸が「もうあんたは(引用者注:役者として)北野劇場やコマ劇場てな大きな所へも出られるようになってんねんさかい、落語をやる時も場所を選びや」とアドバイスした。これらの体験を通じ、幼少期に親しんだ仏教の思想「即時即今(常に今この瞬間があるだけだという概念)」を思い出した松之助は、「区分は小さいこだわり」「自分は『芸人』」と意識を変え、「芝居をやれと言われれば役者を演じ、落語をやれと言われれば噺家を演じる」と決心した。秋田實や漫才師グループが新会社「上方演芸」設立のため宝塚新芸座から退団すると、笑芸出身者は座長格のミヤコ蝶々・南都雄二や松之助など、わずか数人になったが、松之助は芝居の中でギャグを一手に引き受ける役割になったため「思いきりバカバカしい動きをしたり喋ったりでご機嫌でした」と回想している。 1953年4月、新芸座の人気演目を中継する『漫才学校』(ABCラジオ)の放送が始まり、松之助は番組のヒットとともに人気タレントとなっていく。蝶々・雄二降板後の『新・漫才学校』で構成作家も兼務し、これが台本作家としてのキャリアの始まりとなった。また、NHKのテレビ実験放送時代からドラマに出演し、テレビ俳優としてもコンスタントに活動しはじめる。1954年10月には、アイスショー「宝塚歌劇団スケートチーム」の第1回公演『白雪姫』に参加し、アイススケートを特訓して白雪姫の母役をつとめている。 菊田一夫のオファーを会社が勝手に断ったことをきっかけに、「他人の意思で自分の行動も左右される」「サラリーマン役者」の立場に疑問を抱くにいたった松之助は、1958年暮れ、突如、新芸座を退団し、翌年3月または4月、元は永田キング門下の芸人で当時は興行師をしていた北村ハッピーに紹介され吉本興業と契約する。同社は3月に「うめだ花月劇場」を開館させたばかりであり、独自の新たな軽演劇のプログラムに出す役者を求めていた。松之助いわく、昭和中期の大阪の芸界は「実力さえあれば、なんぼでも替われる。会社より芸人のほうが強かった」という環境であり、これ以降の10年間、気の向くままにプロダクションを渡り歩いた。 1959年4月、松之助は「吉本ヴァラエティ」、のちの「吉本新喜劇」の創設メンバーとなった。当時の新喜劇には、オリジナルの脚本と演出を担当する者が進行係の竹本浩三だけしかおらず、ほとんど役者によるアドリブで芝居を進める状態だった。幹部(のち社長)の中邨秀雄のすすめで、松之助も「明石光司」(あかし こうじ)のペンネームで脚本を書くことになった。1959年の、改称「吉本新喜劇」第1回公演『夫婦読本』は松之助の作・演出・主演である。新喜劇では、一時退社した時期をはさんで「50本ほど書いた」という。松之助のインタビューを収めた4代目林家染丸の著書『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』には、「明石光司」作『三寒四温』の全編を載せている。 1961年4月、松竹芸能が新たな軽演劇団の旗揚げのため、契約期間満了を控えた松之助の引き抜きを図った。吉本側は松竹主催の舞台に松之助を客演させ手打ちにしようとしたが、松之助は誘いに応じて松竹に移籍した。このとき松之助は勘違いから吉本との契約期間を1ヵ月残して移籍したため、幹部(のち社長)の八田竹男を激怒させている。劇団はミスワカサ・島ひろし率いる「松竹とんぼり座」として発足、松之助は台本執筆と演出を平尾晋作、花登筺と分担し、自身も役者として出演した。ワカサ・ひろしが立ち上げ1年で退団後、劇団は松之助を座長に据え「松竹爆笑劇」と改称する。ここで初代森乃福郎、上方柳次・柳太との3組主演公演などを手がけた。 やがて、松之助の台本に対する会社側の「的外れな」注文や干渉が重なり、ストレスを募らせていったほか、「相談もなく役者を入れ替えられ(中略)げた箱も1番下段」といった理不尽な扱いに堪えかねて、自身の台本ではない公演の最中に「こんな芝居おもろないやろ、笑うな」と絶叫する。これが新聞に載りスキャンダルに発展したことをきっかけに、3年の契約期間満了をもって退社した。のちに松竹は合わなかったと回想している。 その1964年の4月、松之助は千土地興行の後身・日本ドリーム観光に移籍、千日劇場で落語を演じるかたわら軽演劇の「松ちゃん劇団」を率いたほか、大阪劇場の公演で出演者と演出家を兼任した。また、この時期に3代目桂米朝司会の大喜利番組『お笑いとんち袋』にレギュラー出演し、2代目露乃五郎、3代目桂米紫、4代目桂文紅、3代目笑福亭仁鶴とともに「実験寄席」を主宰すると、高座の左右に置いたスピーカーから効果音を流したり、当時の洋画を落語に仕立てて演じるなどの演出を試み、若い観客を増やした。なお、千土地移籍後も、第2期の「松竹家庭劇」にゲスト参加した。
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