南海 -フレズノ時代
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高校卒業後は医者は無理でも、特定郵便局であった実家の後を継ぐため大学進学を予定していたが、村上を目に留めた南海ホークスの鶴岡一人監督自らが村上家を訪問。鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれ、高校在学中の1962年9月に南海と契約を結ぶ。1年目の1963年には神宮で行われたジュニアオールスターゲームに出場するが、敗戦投手となる。2年目の1964年のキャンプ後半、いきなり球団フロントからパスポートを取る準備をするよう言われ、新人の高橋博士・田中達彦と共に3月10日に渡米。メジャーリーグ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣されたが、この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できるという条項を入れたが、南海側は昇格者が出るわけがないと高を括っていた。当時の村上はまだアメリカの事などよく知らず、羽田から飛び立ったジェット機は一度ホノルルで給油し再びサンフランシスコへと向かい、サンフランシスコ上空から地上を見下ろした時には「まるで美しいおとぎの国」に来たかのように思えた。到着するとすぐジャイアンツ所有のキャンドルスティック・パークへ行き、球団関係者に挨拶した後にネクタイを締めたままマウンドに立った時には「ここで投げてみたいなあ」と思った。 村上ら若手の一行はアリゾナから1時間ほどのフェニックスに向かったが、そのキャンプ地は砂漠の真ん中でたった一本通っている道に面していて、樹木は無く、遠くに茶色い山があるだけで、まるで西部劇を観ているような環境であった。アメリカに行くまではついていてくれた通訳も1週間で帰国してしまい、言葉の分からない3人だけで1ヵ月半の間もマイナーの選手達と練習するという心細い環境であったが、単語だけの会話に終始し辞書をポケットにグランドに出て選手達と出来るだけ会話をする事を心がけた。村上が「今でも忘れられない」と語っているのは朝食が美味しかった事で、当時の南海のキャンプは米飯と味噌汁、目玉焼きにアジの干物と純和風であり、アメリカのオレンジジュースやフレッシュなレタスのサラダ、ハム、ベーコン、ミルク等全てが当時の日本では味わえない贅沢感と旨さを感じた。 最初は練習が朝10時から午後1時過ぎで終わるため時間潰しに苦労したが、日が経つにつれて友達も出来て楽しくなり、特に日本人を見た事のない選手が多く、向こうから英語やスペイン語で話しかけてきて楽しく過ごせるようになった。初めはマイナーのシステムを知らなかったため、昨日友達となった選手を翌朝見かけないので他の人に聞いてみて「クビになり国へ帰らされた」と知らされたこともあり、「マイナーの選手はまだ契約をしていないため、実力が無いとすぐその場でクビになる」と聞かされ、改めて「アメリカ野球社会は厳しいなぁ」と実感した。練習後には時々ヒッチハイクで100kmのスピードを約20分もかけて近郊の町へ行き、買い物も楽しんだが、練習試合では最初3Aに配属されるも途中から1Aに降格させられ、いつまで経っても給料をくれず、言葉が通じないので理由を聞くことも出来なかった。そのうちに日本から持参した金も残り少なくなり、町へ行く事もやめ、キャンプも終わると、村上ら3人の配属はバスで24時間もかかるカリフォルニア州フレズノであった。一旦ホテルに入った村上らは聞かされていた世話をしてくれるという日系人の後見人を待ったが、3日経っても現れず、金の無くなってきた村上らはフレズノにある東京銀行に飛び込んで事情を説明しアパートを探してもらう事にしたところ、そこで偶然出会った日系二世の佐伯宅に下宿させてもらう事となり、シーズン開幕後の月末に1週間分ほどの給料を貰った。 2週間程して後輩2人はモンタナ州にあるルーキーリーグへ行くことになり、村上一人となったが、佐伯が日本語を話せた事と球場への送り迎えをいつもしてくれた為助かった。当初派遣は6月中旬までの予定であったが、この年の南海はジョー・スタンカ、杉浦忠の両輪に野村克也や広瀬叔功を擁して日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。村上はクローザーとして7・8・9回を投げる役目に回され、1Aフレズノは村上の好投で首位を突っ走って8月中旬には優勝を確実にする所まで来たある日、クラブハウス内で選手達が神妙な顔をして話をしていた。9月1日からメジャーのベンチ枠が25名から40名になるという事で、この1Aからも誰か行くかも知れないという話であり、このチームには、首位打者とホームラン王の2人、それに最多勝の投手がいるから誰かが行くかも知れないと噂をしていて、その話をしている中の一人に「マッシー!ひょっとしたら君にもチャンスがあるよ」と言われ、その時の村上は「なるほどそんな事もあるのかな~」と思うくらいであったが、8月28日に監督が「どうもマッシーがメジャーに昇格するらしい」と言ってきて、翌29日の試合前に村上にそっと「君に決定した。マイナーのGMがエアーチケットとホテルのアドレスを持ってくるからその指示に従いなさい」と伝えてくれた。30日にはGMが来て選手達の前で村上がメジャーに昇格する事を発表し、選手達は心から祝福してくれたが、試合後の村上は慌ただしく荷物をまとめて下宿先へ飛んで帰るも、これからが大変であった。31日朝にプロペラ機でサンフランシスコに飛び、ジェット機に乗り換えてニューヨークのジョン・F・ケネディ空港へ、そこからバスでマンハッタンにあるホテルへ一人で行かなくてはならず、この時に約半年間の短期間で習得したての少ない英語を使いながら苦労して行ったが、サンフランシスコへ誰かが迎えに来ても良いのではないかとも思った。ホテルでようやくチェックインしようとしたら村上の名前が載っておらず、ロビーで待つこと20分間も再び心細くなり、球団職員がやって来て無事チェックインすることができたが、部屋で待つ2時間も何の連絡もなく腹は減ってきて、知らない街で表へも出られず仕方なくホテルのレストランへ入った。ウエイトレスに案内され席に着こうとすると、スパニッシュ系の2人の男から「君はジャパニーズ・ピッチャーか?」と声を掛けられ、村上は即座に「そうだ」と言うと、2人は「ここに座って一緒に食べよう」と言うので喜んで同席したが、この2人はジャイアンツのエースフアン・マリシャルと遊撃手のホゼ・パガンであると後で分かる。メニューが分からず同じ物を頼んで食べ、昨日までの1Aではホットドッグかハンバーグがご馳走であった村上には値段が高く驚いたが、この時でも「今日は同席の2人に合わせてローストビーフでも仕方ないが、給料の安い私はとても明日からはこんな贅沢は出来ない」と考えてしまった。
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