南海-阪神-日ハム時代
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1965年オフに鶴岡の勇退予定が、後任の蔭山和夫の急死で、改めて鶴岡が復帰した。村上はまだアメリカで野球を続けたかったが、鶴岡への義理を果たすため、1966年に南海に復帰した。アメリカでメジャーリーガーの筋肉の凄さを目の当たりにし、帰国すると鍛冶職人に実家にあったものより2倍くらい重いまさかりを作ってもらった。3kgほどのまさかりを使って、オフの間に実家の風呂で使う薪を割った。1年分を1ヶ月間で割ったため確かに筋肉はついたが、今度は体の切れがなくなった。ある有名なOBが新聞に「左投手はオーバースローじゃないと大成しない」と書いていたため、スリークオーターであったフォームも変えたが、左肩の後ろが痛くなって、ボールが思うようにいかなくなった。そのため同年は6勝4敗・防御率3.08を記録してリーグ優勝に貢献するが、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買う。巨人に敗退した日本シリーズでは、リリーフながら全6戦中5戦に登板。1967年も41試合に登板するが、3勝1敗・防御率4.03と勝ち星は伸びなかった。1968年には大きく飛躍し、6月29日の近鉄戦(大阪)で日本での初先発を完投勝利で飾ると、先発にリリーフにフル回転。7月9日の西鉄戦(大阪)から9月1日の東京戦(大阪)まで12連勝をマークするなど、皆川睦雄に次ぐ18勝を挙げて面目を果たし、同年は勝率.818で最高勝率のタイトルを獲得。二軍で投げている時に渡会純男が「今のお前は上から投げているけど、肘の位置を下げてみたらどうだ」とアドバイスし、スリークオーターに戻すと、球に切れが出てきたのが飛躍のきっかけであった。その後も先発として活躍を続け、1971年にはチーム1位の14勝を挙げる。1973年には先発陣を外れたものの、7年振りのリーグ優勝に貢献し、同年の巨人との日本シリーズでも登板。 1972年頃からは野村克也選手兼任監督の自身の起用法に不満があり、1974年には登板機会が減少。同年オフには相羽欣厚と共に、和田徹と野上俊夫との交換トレードで、阪神タイガースへ移籍。阪神では主に中継ぎとして起用されるが、9月14日の大洋戦(甲子園)で1試合だけローテーションの谷間に先発し、早々に打ち込まれ敗戦投手となった。またフレズノ時代のチームメイトで、前年から阪神に在籍していたボビー・テーラーと11年ぶりに再会している。 1975年オフに後藤和昭と共に東田正義との交換トレードで、日本ハムファイターズへ移籍。1976年から中継ぎとして復活し、1977年にはリーグ最多登板を記録。1978年も2年連続リーグ最多登板で12勝10セーブを挙げたが、三原脩球団社長は「投手というのは稲尾和久みたいに、先発完投しないといけないんだ」と言って、給料を上げてくれなかった。その後も安定した活躍を続け、1981年にはチームのリーグ優勝に貢献し、同年の日本シリーズでは2試合に登板している。1982年オフに日本ハムを退団し、これが現役選手としての引退となった。 1983年、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。
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