南海-阪神-日ハム時代とは? わかりやすく解説

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南海-阪神-日ハム時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:54 UTC 版)

村上雅則」の記事における「南海-阪神-日ハム時代」の解説

1965年オフ鶴岡勇退予定が、後任蔭山和夫急死で、改め鶴岡復帰した村上はまだアメリカで野球続けたかったが、鶴岡への義理を果たすため、1966年南海復帰したアメリカでメジャーリーガー筋肉の凄さを目の当たりにし、帰国する鍛冶職人実家にあったものより2倍くらい重いまさかり作ってもらった。3kgほどのまさかり使ってオフの間に実家風呂で使う割った1年分を1ヶ月間で割ったため確かに筋肉はついたが、今度は体の切れがなくなった。ある有名なOB新聞に「左投手オーバースローじゃない大成しないと書いていたため、スリークオーターであったフォーム変えたが、左肩の後ろ痛くなって、ボール思うようにいかなくなった。そのため同年は6勝4敗・防御率3.08を記録してリーグ優勝貢献するが、当初期待ほどの活躍はできず不評を買う巨人敗退した日本シリーズでは、リリーフながら全6戦中5戦に登板1967年41試合登板するが、3勝1敗・防御率4.03と勝ち星伸びなかった。1968年には大きく飛躍し6月29日近鉄戦(大阪)で日本での初先発完投勝利で飾ると、先発リリーフフル回転7月9日西鉄戦(大阪)から9月1日東京戦(大阪)まで12連勝マークするなど、皆川睦雄に次ぐ18勝を挙げて面目果たし同年勝率.818で最高勝率タイトル獲得二軍投げている時に渡会純男が「今のお前は上から投げているけど、肘の位置下げてみたらどうだ」とアドバイスしスリークオーターに戻すと、球に切れが出てきたのが飛躍きっかけであったその後先発として活躍続け1971年にはチーム1位の14勝を挙げる1973年には先発陣外れたものの、7年振りリーグ優勝貢献し同年巨人との日本シリーズでも登板1972年頃からは野村克也選手兼任監督自身起用法に不満があり、1974年には登板機会減少同年オフには相羽欣厚と共に和田徹野上俊夫との交換トレードで、阪神タイガース移籍阪神では主に中継ぎとして起用されるが、9月14日大洋戦(甲子園)で1試合だけローテーション谷間先発し早々に打ち込まれ敗戦投手となった。またフレズノ時代チームメイトで、前年から阪神在籍していたボビー・テーラー11年ぶりに再会している。 1975年オフ後藤和昭と共に東田正義との交換トレードで、日本ハムファイターズ移籍1976年から中継ぎとして復活し1977年にはリーグ最多登板記録1978年2年連続リーグ最多登板1210セーブ挙げたが、三原脩球団社長は「投手というのは稲尾和久みたいに、先発完投しないといけないんだ」と言って給料上げてくれなかった。その後安定した活躍続け1981年にはチームリーグ優勝貢献し同年日本シリーズでは2試合登板している。1982年オフ日本ハム退団し、これが現役選手としての引退となった1983年サンフランシスコ・ジャイアンツスプリングキャンプ参加選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用打撃投手として契約した

※この「南海-阪神-日ハム時代」の解説は、「村上雅則」の解説の一部です。
「南海-阪神-日ハム時代」を含む「村上雅則」の記事については、「村上雅則」の概要を参照ください。

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