人物・作風の変遷
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1960年代後半、現代木版画の旗手として華々しく登場。浮世絵が完成させた精緻な刷技術を駆使して抽象的な形象の世界を万華鏡の様に展開していった黒崎彰は、「ほぼ10年ごとにその作風を変容していった」。渋谷区立松濤美術館主任学芸員・瀬尾典昭は、木版画制作から表現完成直前までの1965年〜1969年までを第1期、「赤い闇」シリーズの1970年からペーパーワークに重点を移す1980年までを第2期とし、それ以降、現在までを第3期としている。 小学校5年生で兵庫県学生美術展で特選となり「絵描きになる」と宣言。伊藤継郎の新制作洋画研究所で油彩を習うが、却って日本画の村上華岳に魅かれる。父親の意見もあって京都工芸繊維大学 工芸学部 意匠工芸学科に進学。 大学の授業内容が欧米一辺倒なのになじめず、京都の古本屋や浮世絵店を歩き、幕末浮世絵(錦絵)に関心を持つ。1965年に油彩で初の個展を開くが、その直後、「以前の世界と決別」を期して、油絵作品を焼却(事実上の油絵での立身出世(上掲の「絵描きになる」宣言)の挫折[43])、独学で木版画制作に専心。1966年には「宗教のことを真剣に考えた時期」で「レクイエム」をテーマにした連作と「死の淵より」シリーズで、初の木版画個展を開く。また、彫り師、刷り師を訪ね、浮世絵の技法を学んだ。後に当時出会った刷り師や彫り師を「版画の師を持たなかった自分にとっての先生、心の恩人」と述べている。 1967年に「哀華」「哀樹」シリーズを発表し、日本版画協会展会友推挙、国画会の新人賞受賞。1968年の「浄夜」で浮世絵から学んだ独自の技法を開発。主要なモチーフの「階段」が登場。1969年の「寓話」シリーズで赤と黒のコントラストが際立つようになり、「世界に日本の現代版画の底力をまざまざと見せつけた代表作」ともいわれる。1970年には「赤い闇」シリーズを展開し、国内外において相次いで受賞。71年から自薦してきた刷り師・内山宗平と95年、内山の死まで25年間コンビを組む。 1972年の「失われた楽園」、続く「星の神話」シリーズではシルクスクリーンを用いた新混合技法を試み、1973〜1974年、ハーバード大学(アメリカ)、ハンブルク造形芸術大学(ドイツ)、大英博物館(イギリス)にて版画の研究を行い、視野を広げる。1978年には「日本の工芸」に越前や飯田などの紙すきの里探訪記を書き、版画・紙研究家としても業績を残す。 1980年、前年に招待された中国旅行から着想を得て、版画集「中国」を刊行。1981年からの「軌跡」シリーズでは、黒色モノトーンのストロークの繰り返しのイメージ構成に一変。「時の軌跡」でソウルの第3回東亜国際版画ビエンナーレ 大賞を受賞。1984年の「二つの時の間に」シリーズ。1980年、韓国訪問で強靭な韓国の手漉き和紙の韓紙に魅かれ、木版画から、紙の素材の面白さを生かした「ペーパーワーク」に進んでいった。1982年、ソウルで「現代紙の造形・日本と韓国」展を開催。日韓両国で話題となり韓国に於けるペーパーワークに大きな影響を与える。1987年、京都精華大学に教授として移るが、版画コースに日本で初の紙工房設立を条件として提出し、同大学で実現させた。この頃より当大学内にて、第1期木版画作品がシルクスクリーン様であることより、木版創作の必然性につき批判が出る。 1994年から、ふたたび木版画の新たな作品に取り組み始めた黒崎は「紙とふれあっているうちに、段々また木版画で何かできそうなー中略ー『紙の上に刷る』のではなく、『紙と同化』を意識するようになった」と語っており、韓国紙をつかった「ガイア」シリーズが生まれている。また1993年から1994年にはNHK趣味百科の「木版画に親しむ」(13回シリーズ)に講師として出演。入門書を書くなど、木版画普及の実技指導にも力を入れたが、下火となったアーチストとしての仕事は以後盛り返しを見ず、大学内でも権威であった所以、教員、学生の一部より絶対君主的指導を敬遠されてもあった。 2002年には、はじめて白を基調とした『遊牧の民』シリーズを発表する一方、版画研究家として「版画史解剖ー正倉院からゴーギャンへ」を上梓。73年のアメリカ滞在以来続けてきた版画史や版画を生み出す道具や素材への幅広い研究成果を世に出した。 2012年、少年時代、疎開などで5年間すごした滋賀県を舞台にした「近江八景シリーズ」8点を、2年かけて完成させた。
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