人物、個人データなど
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仕事にまつわる才能、その背景など 独特の語り方は「古舘節」と呼ばれる。 渡辺宜嗣、佐々木正洋は、テレビ朝日の同期入社。 母親と実姉は喋り達者であり、喋る隙さえ与えられず無口な少年だった。小学生になっても人前で喋ることが苦手、朗読の時間は寝たふりをしていた。小学生の頃、健康優良児を目指して食べまくった結果”無口のデブ”になった。いつになっても越えられない優秀な実姉へのコンプレックスから出会ったのがプロレスであり、200名以上のプロレスラーを丸暗記、そこに立ちはだかったのが母親で外国の俳優・女優の名前を全部暗記していた。こうして始まったのが、どちらかが言えなくなるまで続ける映画俳優vsプロレスラーの記憶勝負、この対決が喋ることへの目覚めだったとしている。 叔父は、ラジオ時代の大相撲中継のアナウンサーだったとされているが事実ではない。その叔父に憧れてアナウンサーの道を進んだという。 「トーキングブルース」は山里亮太、若林正恭、カンニング竹山といったお笑い芸人たちにも影響を与えている。 趣味・ファン歴 中学時代からの吉田拓郎のファン。拓郎とは自身が司会を務めた『おしゃれカンケイ』(2000年6月18日)で共演した。 交友、人間関係 THE ALFEEの高見沢俊彦とは親友。「古舘伊知郎のトーキングブルース」のステージで使用する楽曲の提供を毎年行っており、それらをまとめたCDアルバムが発売されている。 プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年のフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会抜擢だった。当時民放各局に乱立していた音楽番組の中でも抜きん出た格上の番組であり、そこにフリー転身から1年しか経たない古舘の抜擢について、当時の視聴者から危惧の声が上がっていた。その当初の視聴者の反応も、当時の『夜のヒットスタジオ』の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか不安の声は聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。1988年に芳村は番組を勇退し、古舘自身も独立早々の苦境時に最初に使って貰ったという恩義から、『夜のヒットスタジオ』、そして芳村に対しての強い敬意の念を抱いている(『SmaSTATION!!』に出演した際にこのことを述べている)。古舘の結婚式の仲人は芳村夫妻が務め、芳村とは家族ぐるみの親交を続けている。 1991年、実姉が癌で他界する不幸に見舞われた。この時、それまで特に親しくなかった逸見政孝は、フリーアナウンサー同士で身内を癌で亡くしたという同じ経験を持つことから古舘にお悔やみの手紙を送った。ここから2人の間に交流が始まり、逸見が癌で闘病中に日本テレビ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の司会を代行している。なお、逸見は会見前に自身が癌であることを伝えていた。古舘は告白を聞き、何も言えなかったという。逸見の見舞いにも訪れたとしている。 2012年5月28日、自身の母親が死去。実姉と同じく癌によるものだった。古舘は母親の入院先は実姉の入院時と同じ病院を選んだ。実姉の癌が発見される前、体調不良を訴えてある病院に通院していたが、何度通っても診断は「大丈夫」という言葉だけで「おかしい」と思い、別の病院に切り替えたところで癌と判明した。発見が遅すぎたため「最初からその病院だったら姉は死なずに済んだかもしれない」と後悔していたことにもよる。『報道ステーション』で多忙を極める中、実姉の時以上に、献身的に看病したという。同日夜、『報道ステーション』開始の数時間前に母親は息を引き取り、古舘は局内での番組の打ち合わせ中に訃報を聞いたという。実姉の時と同様、仕事で母の最期を看取ることはできなかった。その直後、母親が亡くなってから数時間後に始まった『報道ステーション』の生放送では、普段と変わらぬ様子で、淡々とニュースを伝えた。 1994年・1995年の紅白において、両組司会コンビを組んだ上沼恵美子とは、この共演が原因で確執が生じたとされる。1996年の紅白における両組司会もこの2人を起用する方向で話が進み、古舘は続投したが、上沼は古舘との確執を理由に拒否したと伝えられている。 2003年、『ニュースステーション』のメインキャスターを務めた久米宏は「後を受け継ぐ古舘さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際(久米の『ニュースステーション』降板表明会見より)、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し古舘は先述した『AERA』のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある。久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結構あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている。 愛称 親友の高見沢俊彦は古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。テレビ朝日時代の同期の南美希子も古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。また、『夜ヒット』で司会コンビを組んだ芳村真理(上記の通り、古舘夫妻の結婚式の媒酌人も務めた)や加賀まりこからは「伊知郎さん(または伊知郎ちゃん)」と呼ばれている(ただし、両者共にこの呼び名で古舘を呼ぶのは番組出演以外の場のみで番組共演時は主に「古舘さん」の呼称を使っていた)。 家族 妻、および子は男子と女子がひとりづつ。1987年7月に結婚。妻は日本航空の元客室乗務員。長女は吉田明世の同級生であり、吉田が幼少の頃より彼女とも親交がある。長男・佑太郎はThe SALOVERSのボーカリストを経て俳優として活動している。娘2人はいずれも既婚者であり、彼女らの結婚式では父親の古舘が直接司会を務めた。 他 『報道ステーション』を受け持った時期の年収は、同番組以外からの物を含めて5億円程度とされる。12年間でのギャラ総額について、本人曰く「世田谷、一等地、50軒分位」に相当する。
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