人物像とその評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 08:15 UTC 版)
一般には、対室町幕府強硬論者だといわれる(佐藤進一など)。 『太平記』によると、興国2年/暦応4年(1341年)北陸で足利方に敗れて帰参した脇屋義助に対して後村上天皇が恩賞を与えたことについて、富士川の戦いで敗走した平維盛を昇進させた平清盛の故事を引き合いに出して非難したものの、四条隆資からその発言の拙さを指摘されると、一言も反論できずに部屋を退出したという。また同記によると、観応の擾乱の影響で南朝に帰順した足利直義の処遇をめぐって議論になった際、二条師基が即時赦免を進言したのに対し、実世は誅殺を主張したという。さらに正平一統の破綻後にも、楠木氏の縁者を仲介とする公武の和平交渉に反対したとされる。これらの逸話を総合したところでは、やや硬直した思想の持ち主であったようであるが、その一方で、太平記の作者は実世を「大才」と賞し、中巌円月も彼を「賢臣」と称える漢詩を残している(『東海一漚集』「寄前大理藤納言」)。
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