主な施設・出来事
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「サントノーレ通り」の記事における「主な施設・出来事」の解説
以下、番地順に記載。 14番地 - クロード・ベルナール(医師、生理学者)が1863年から居住。 47番地 - アントワーヌ・ド・ラヴォワジェが居住 111番地 - ジュール・マザランの新税に反対したピエール・ブルッセル (Pierre Broussel) らにより1648年8月26日、アルブル=セック通り (Rue de l'Arbre-Sec) からフロンドの乱が勃発した。また、サントノレ通り界隈は"革命通り"と呼称されるように幾多の革命が勃発した。 96番地 - モリエール(劇作家、俳優)がソヴァル通り (fr) との角で出生。1839年には同地にリヒャルト・ワーグナーが居住滞在した。 115番地 - ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール(化学者)が1762年に薬局を開く。1774年、王妃マリー・アントワネットの愛人ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが居住。 143番地 - オラトワール通りが交差。フィリップ・オーギュストの城壁跡。サントノレ南側を並走するリヴォリ通りにかけて改革派教会オラトワール・デュ・ルーヴル教会 (fr) があり、ガスパール・ド・コリニーの彫像が建つ。 182-192番地 - 文化・通信省 194番地 - ポール・バラスが1789年に居住。 195番地 - 1820年、肖像写真家で知られるナダールがサン=ロック通りとの角で生まれる。 202番地 - 1660-1673年の間、モリエール劇団 (Troupe de Molière) がこの地にあったパレ・ロワイヤル劇場 (Théâtre du Palais-Royal) に置かれ、その後入れ替わるように1673-1763年の間、最初のオペラ座が置かれた。また、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』第二幕の舞台ラグノーの店があった地 (現在の Café Brasserie Ragueneau)。タルトレット・アマンディーヌはラグノーが1638年にこの地で作ったもの。通り向かいには、1978年9月開業の大型骨董店ルーヴル・デ・アンティケール (fr) が、サントノレとリヴォリ通りとに挟まれた大型区画上の建物にある。元々は、旧ルーヴル百貨店 (fr) が1855-1974年にかけてあった地。ゾラ作『ボヌール・デ・ダム百貨店』(1883年) も参照。 203番地 - ブルボン朝創始者の国王アンリ4世殺しの科によりグレーヴ広場で八つ裂きの刑に処されたフランソワ・ラヴァイヤック (François Ravaillac) が1610年5月13日に滞在した。現在はオテル・トロワ・ピジョン(ホテル)。 204番地 - パレ・ロワイヤル。西隣は、コレット広場 (fr) とコメディ・フランセーズ。 209番地 - ジョゼフ・ギヨタン(内科医)がフランス革命後に居住。 211番地 - ノアイユ館 1715年建造。2代目ノアイユ公爵アンヌ=ジュール・ド・ノアイユ (fr) 未亡人が購入。1783年まで5代目ノアイユ公の娘アドリエンヌ (Adrienne de La Fayette) とその夫ラファイエットが居住した。 216番地 - 復古王政期にルイ・フィリップに仕えたアレクサンドル・デュマ・ペールの事務所があった。 219番地 - 統領政府期間中、第3統領シャルル=フランソワ・ルブランが1802年に居住。また、1831年に"アルジェリア侵略戦争"の勝利記念にノアイユ館の一角を取壊し、アルジェール通り (fr) を設けた。ノアイユ館は、現在のオテル・サン=ジェームス・エ・ダルバニー (ホテル, l'Hôtel Saint-James et d'Albany) に引き継がれている。 229-235番地 - フイヤン修道院 (Couvent des Feuillants)。界隈でサロンを主宰するサブリエール夫人のもてなしで詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌが1673年の幾期間居住。さらに1685年には308番地に居住した。またフランス革命期の1789年11月から、ジャック=ルイ・ダヴィッドの画『球戯場の誓い』で知られる憲法制定国民議会が、テュイルリー宮殿側のラ・サル・デュ・マネジュに置かれた。同議会議場で、ルイ16世は糾問され死刑宣告を受けた。その至近フイヤン修道院に同議会事務局が1798年まで置かれた。1791年7月16日、ジャコバン派が内紛で分割されてから成立したフイヤン派の名称の由来となった。 239番地 - 1748-1762年の間、ジャン=ジャック・ルソーの庇護者エピネー夫人 (Louise d'Épinay )の最初のサロンがあった地。 245番地 - 1885年、香水ランテリック (Lenthéric) のメゾンがあった。 263番地 - ノートルダム・ド・ラソンプション教会。フランス革命中は兵舎に利用された。また、七月王政期の1832年6月、ジャン・マクシミリアン・ラマルクの葬儀が執り行われた(六月暴動参照)。 270番地 - 文盲ながら劇作家でフェミニストの走りオランプ・ド・グージュが居住。フランス革命期間中、ギロチン刑に処された。 273番地 - 『第三身分とは何か』で知られるエマニュエル=ジョゼフ・シェイエス居住 275番地 - 1790年に死刑宣告を受けたジャン=ポール・マラーが3階に隠れた 286番地 - サン=ロック教会。ジョン・ローはここでカトリックに改宗し、1719年財務総監就任。また、ドニ・ディドロの墓がある。フランス革命期の1795年10月、ヴァンデミエールの反乱が勃発。テルミドールの反動で左遷されたナポレオン・ボナパルトが副官に返り咲く。ナポレオンはミュラを登用。同教会界隈のぶどう弾攻撃で王党派300人あまりを殺害しあっさり鎮圧。まもなく軍総司令官に昇進した。同教会ファサードには弾痕が未だ遺っている。 300-302番地 - オーベルジュ・デュ・リヨン・ドオー (auberge du Lyon d'Or) にダルタニャンが滞在。 310-316番地 - パリ音楽院に学んでいたホアン・クリソストモ・アリアーガが居住し20歳で夭折。 315番地 - ジョゼフ・フーシェが居住。 320番地 - 平原派で山岳派の協力者、公安委員会委員ベルトラン・バレール・ド・ヴュザック(Bertrand Barère de Vieuzac)が居住。 334番地 - ノアイユ別館。1744年に劇作家ピエール・ド・マリヴォーが居住。 335番地 - エゲルトン館 (エガートン館, Famille d'Egerton) 342番地 - 徴税請負人ルイ=アドリアン・プレヴォ・ダルランクール (Louis-Adrien Prévost d'Arlincourt) が同徴税請負人の父らと居住。1794年5月8日に父の刑執行6日前に革命広場でギロチン刑に処された。 350番地 - 歴史家ジュール・ミシュレが"公安委員会の嘘つき"と評する上記ヴュザックが1794年に隠れた地。 352番地 - サロン主宰者で名高いソフィー・ド・コンドルセ (Sophie de Condorcet, ニコラ・ド・コンドルセ未亡人) が居住。 368番地 - 上記ジャン・マクシミリアン・ラマルクが居住。 370番地 - ジャンヌ・ポワソン (ポンパドゥール夫人) が居住 374番地 - ジョフラン夫人 (Marie-Thérèse Rodet Geoffrin) のサロンがあった地。1825年、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンが居住。 384番地 - タンサン夫人 (マダム・タンサン, Claudine Guérin de Tencin) のサロンがあった地。百科全書派のジャン・ル・ロン・ダランベールは実子だが、産まれてまもなくしてシテ島に遺棄した。 398番地 - フランス革命期間中の1791-1794年、ロベスピエールが同地のデュプレ家に下宿滞在。また、同地で8月10日事件を計画した。 404番地 - 先で交差するサン=フロランタン通りを左(南)に曲がると1767-1769年建造サン=フロランタン館 (Hôtel de Saint-Florentin) がある。1812年、タレーランが購入し中二階に居住し、愛人ドロテ・ド・クールランドが三階に居住。1814-1815年のナポレオン戦争終結期にロシア皇帝アレクサンドル1世が自由に利用し、タレーランによりブルボン朝による復古王政のための包括交渉の材料に用いられた。1838年7月にはパリ・ロチルド家初代ジェームスが高額で購入し、ハイネは"パリ金権政治のまさにヴェルサイユ"と詠んだ。中二階を借りたドロテア・フォン・リーフェンがパリで開いたサロンは"欧州の情報収集拠点にして監視所"と呼ばれた。1949年、マーシャル・プラン本部が置かれ、また、NATOの最初の米国特使を迎え入れた。サン=フロランタンから先はリヴォリ通り、コンコルド広場の海軍館 (Hôtel de la Marine) に出る。 422番地 - ルイ13世の城壁とサントノレ門があった地。1652年10月21日、フロンドの乱から逃れていたルイ14世がこの城門からパリに帰還した リヴォリ通り側からサントノレ通り方向を見る。オラトワール通り (Rue de l'Oratoire )。左はオラトワール・デュ・ルーヴル教会 オラトワール通り沿いリヴォリ通りにかけて建つ、パリでは珍しい改革派教会オラトワール・デュ・ルーヴル教会。リヴォリ通り側ルーヴル美術館から見る。 パレ・ロワイヤル (あるいは後に"パレ・エガリテ"とも呼称)、1679年 Café de la Régence 1881-1910. (18・19世紀ヨーロッパにおけるチェスの聖地だったカフェ) エキゾチックなエジプシエンヌ姿のコレット, 1907年。コレット広場の名称は、1966年アンドレ・マルローが、パレ・ロワイヤルやシャンゼリゼ界隈に居住していたシドニー=ガブリエル・コレットから名付けた。 アンドレ=マルロー広場。左に走るのがサントノレ通り、右に走るのがオペラ大通り。 アンドレ=マルロー広場界隈にあるオテル・デュ・ルーヴル ハイアット、2013年4月 『雨の中の午後のサントノレ』 カミーユ・ピサロ作、1897年, 現在のアンドレ=マルロー広場界隈 仏のシンボルマリアンヌが描かれた『民衆を導く自由の女神』。7月革命が最初に勃発したサントノレ通り界隈のバリケード戦にドラクロワが着想を得て描いたもの。 フイヤン修道院とフランス革命期間中、議会が置かれたテュイルリー庭園側のラ・サル・デュ・マネジュ ヴァンデミエールの反乱時、サン=ロック教会 (Église Saint-Roch de Paris) 界隈で王党派に対しぶどう弾による大砲で鎮圧したナポレオン。弾痕が同教会ファサードに未だ遺る。 オテル・ド・ヴァンドーム界隈 ノアイユ館 歩行者天国 1380年のパリ市街図。内側の黒線はフィリップ・オーギュストの城壁。同外側はシャルル5世の城壁。セーヌ川右岸左側にサントノレ通りが見える。サントノレ通りとルーヴル砦(ないし城)の間にあるレ・キャンーズ・ヴァン (Les Quinze-Vingts) は、聖ルイ設立の盲人病院。 1857年パリ改造初期に発刊されたフランス革命期1792年の地図。テュイルリー宮殿とサントノレ通り(リヴォリ通りやオペラ大通りは未開通)。 Détail du plan de Paris par Mérian (1615) montrant le faubourg au delà de la seconde porte Saint-Honoré. (1615年のサントノレ門(ルイ13世の城壁 (fr) 時代)と門外のフォーブール=サントノレ) 161-163番地にある、パリ包囲戦 (1429年)でサントノレ門(シャルル5世の城壁 (fr) 時代) を攻撃したジャンヌ・ダルクのレリーフ 画像をクリックして拡大
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