七月王政期とは? わかりやすく解説

七月王政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:29 UTC 版)

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー」の記事における「七月王政期」の解説

1830年1月代議院議員初当選リジュー選出)、以降失脚するまで議員務めた議会開会すると、国王シャルル10世は「不埒な策略」によりつくられた統治への障害排除宣言、これに対し代議院議員221名(過半数)が抗議動議可決ギゾー初演説も動議支持するのだったシャルル10世議会閉会させ、ついで5月16日議会解散したが、続く議会選挙英語版)は野党躍進終わり7月25日にはシャルル10世選挙権縮小命じ勅令発した7月27日ギゾーニームからパリ戻ってきたときにはシャルル10世失脚が明らかであり、ギゾー友人のカジミール・ピエール・ペリエ(英語版)、ジャック・ラフィット英語版)、アベル=フランソワ・ヴィルマン(英語版)、アンドレ・マリー・ジャン・ジャック・デュパン(英語版)の要請受けて7月25日勅令対す抗議文を書いたギゾーシャルル10世首相ジュール・ド・ポリニャック公爵愚かさにより王位継承変更不可避であると考えルイ・フィリップ1世支持して1830年8月内務大臣就任したが、同年11月辞任した1831年ペリエ組閣したが、彼は翌年5月死去直後六月暴動勃発するなど不穏な情勢続き10月11日になってようやくニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト元帥率い第一次スールト内閣英語版)が成立して安定したこの内閣にはブロイ公爵外務大臣としてアドルフ・ティエール内務大臣として、ギゾー公共教育大臣として入閣した。この時期よりギゾーが(政治家として)急進自由主義派の間で不人気になり、以降死去まで人気を得ることはなかったが、ギゾー本人は意に介さなかったという。公共教育大臣として4年間において、ギゾーフランス国民に対して教育普及教育法改革行なった。またフランス史協会設立した1836年アカデミー・フランセーズ会員選出された。 1839年春にティエールとともに首相ルイ=マティウ・モレ英語版伯爵攻撃した後、1840年春にイギリスフランス大使英語版)に任命されティエール外務大臣に就任した。有名な歴史家イギリスの歴史文学熟知し、仏英間の友好平和に支持したギゾーヴィクトリア女王ロンドン大衆から歓迎受けたが、ギゾー自身述べたように、彼はイギリス訪れたことがなく、外交素人であり、さらにギゾーティエールの間の不信感により、ムハンマド・アリーシリア領有問題ではギゾーティエール主張する強硬策に反対して警告送ったにもかかわらず無視され同年7月15日ロンドン条約締結にもギゾーは全く知らされなかった。フランスムハンマド・アリー支持したのに対し、ほかの列強オスマン帝国支持したため、開戦直前のような情勢になったが、最終的にルイ・フィリップ1世ティエール求めた軍事上の準備拒否、さらにギゾー呼び戻して組閣させたことで危機解消された。この内閣(英語版)において、名目上首相スールトだったが、実質的にギゾー主導した外務大臣としては平和志向イギリスとの友好主張したため、英仏間は早かれ遅かれ戦争になると考えた強硬派イギリス外務大臣パーマストン子爵とは反りが合わなかったが、1841年ロバート・ピール内閣成立して外務大臣が平和志向アバディーン伯爵交代すると、仏英間の平和が維持されることとなった。これに対し代議院野党イギリスへつらうだけの外交であると批判イギリス議会でも同様にアバディーン伯爵批判する声があったが、倒閣にはならなかった。そして、仏英友好一環としてルイ・フィリップ1世は訪英してウィンザー訪れヴィクトリア女王1843年フランス訪れてウー城(英語版)に滞在した1845年にはリオ・デ・ラ・プラタ封鎖英語版)が仏英共同行われた1846年イギリス政権交代があり、ジョン・ラッセルが代わって首相に就任すると、パーマストン子爵が再び外務大臣に就任した。ギゾーはこれでイギリス外交妨害を再び受けるようになる考え、さらにパーマストン子爵と在スペインイギリス大使英語版)ヘンリー・ブルワー(英語版)の言葉からスペイン女王イサベル2世結婚問題英語版)における仏英間の協定守られなくなると確信した。そのため、ギゾールイ・フィリップ1世イサベル2世ブルボン家のフランソワ・ダシスと結婚させた(これも仏英間の協定違反する行動だった)。

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七月王政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 01:42 UTC 版)

代議院 (フランス)」の記事における「七月王政期」の解説

七月王政下の代議院は、1830年憲章により、納税額による制限選挙選出され議員構成された。七月王政下の政界は、運動派(mouvement: 1830年憲章出発点とみなし、さらなる自由主義的改革積極的な革新派)と抵抗派(résistance: さらなる自由主義的改革消極的な保守派)とが代議院二分する状況であった初期段階では両派間の政権交代もあったが、1840年までにはフランソワ・ギゾー中心とする保守派政権の座を掌握した1830年以後議員任期5年で、被選挙人なるには30歳以上かつ納税500フラン上の納税者であることを要した国王毎年代議院召集し、その停会および解散権有するが、代議院解散した場合は、3か月以内新し代議院召集しなければならなかった。 1852年代議院は再び立法院改称された。

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