七月王政期
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「フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー」の記事における「七月王政期」の解説
1830年1月に代議院議員に初当選(リジュー選出)、以降失脚するまで議員を務めた。議会が開会すると、国王シャルル10世は「不埒な策略」によりつくられた統治への障害の排除を宣言、これに対し代議院議員221名(過半数)が抗議動議を可決、ギゾーの初演説も動議を支持するものだった。シャルル10世は議会を閉会させ、ついで5月16日に議会を解散したが、続く議会選挙(英語版)は野党の躍進に終わり、7月25日にはシャルル10世が選挙権の縮小を命じる勅令を発した。7月27日にギゾーがニームからパリに戻ってきたときにはシャルル10世の失脚が明らかであり、ギゾーは友人のカジミール・ピエール・ペリエ(英語版)、ジャック・ラフィット(英語版)、アベル=フランソワ・ヴィルマン(英語版)、アンドレ・マリー・ジャン・ジャック・デュパン(英語版)の要請を受けて、7月25日の勅令に対する抗議文を書いた。ギゾーはシャルル10世と首相ジュール・ド・ポリニャック公爵の愚かさにより王位継承の変更は不可避であると考え、ルイ・フィリップ1世を支持して、1830年8月に内務大臣に就任したが、同年11月に辞任した。 1831年にペリエが組閣したが、彼は翌年5月に死去、直後に六月暴動が勃発するなど不穏な情勢が続き、10月11日になってようやくニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト元帥が率いる第一次スールト内閣(英語版)が成立して安定した。この内閣にはブロイ公爵が外務大臣として、アドルフ・ティエールが内務大臣として、ギゾーが公共教育大臣として入閣した。この時期よりギゾーが(政治家として)急進自由主義派の間で不人気になり、以降死去まで人気を得ることはなかったが、ギゾー本人は意に介さなかったという。公共教育大臣としての4年間において、ギゾーはフランス国民に対しての教育の普及、教育法の改革を行なった。またフランス史協会を設立した。1836年、アカデミー・フランセーズ会員に選出された。 1839年春にティエールらとともに首相ルイ=マティウ・モレ(英語版)伯爵を攻撃した後、1840年春に在イギリスフランス大使(英語版)に任命され、ティエールは外務大臣に就任した。有名な歴史家でイギリスの歴史と文学に熟知し、仏英間の友好と平和にも支持したギゾーはヴィクトリア女王やロンドン大衆から歓迎を受けたが、ギゾー自身も述べたように、彼はイギリスを訪れたことがなく、外交の素人であり、さらにギゾーとティエールの間の不信感により、ムハンマド・アリーのシリア領有問題ではギゾーがティエールの主張する強硬策に反対して警告を送ったにもかかわらず無視され、同年7月15日のロンドン条約の締結にもギゾーは全く知らされなかった。フランスがムハンマド・アリーを支持したのに対し、ほかの列強がオスマン帝国を支持したため、開戦直前のような情勢になったが、最終的にはルイ・フィリップ1世がティエールの求めた軍事上の準備を拒否、さらにギゾーを呼び戻して組閣させたことで危機が解消された。この内閣(英語版)において、名目上の首相はスールトだったが、実質的にはギゾーが主導した。 外務大臣としては平和志向でイギリスとの友好を主張したため、英仏間は早かれ遅かれ戦争になると考えた強硬派のイギリス外務大臣パーマストン子爵とは反りが合わなかったが、1841年にロバート・ピール内閣が成立して、外務大臣が平和志向のアバディーン伯爵に交代すると、仏英間の平和が維持されることとなった。これに対し、代議院の野党はイギリスにへつらうだけの外交であると批判、イギリス議会でも同様にアバディーン伯爵を批判する声があったが、倒閣にはならなかった。そして、仏英友好の一環として、ルイ・フィリップ1世は訪英してウィンザーを訪れ、ヴィクトリア女王も1843年にフランスを訪れてウー城(英語版)に滞在した。1845年にはリオ・デ・ラ・プラタ封鎖(英語版)が仏英共同で行われた。 1846年にイギリスで政権交代があり、ジョン・ラッセルが代わって首相に就任すると、パーマストン子爵が再び外務大臣に就任した。ギゾーはこれでイギリスの外交妨害を再び受けるようになると考え、さらにパーマストン子爵と在スペインイギリス大使(英語版)ヘンリー・ブルワー(英語版)の言葉からスペイン女王イサベル2世の結婚問題(英語版)における仏英間の協定が守られなくなると確信した。そのため、ギゾーとルイ・フィリップ1世はイサベル2世をブルボン家のフランソワ・ダシスと結婚させた(これも仏英間の協定に違反する行動だった)。
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七月王政期
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「代議院 (フランス)」の記事における「七月王政期」の解説
七月王政下の代議院は、1830年憲章により、納税額による制限選挙で選出された議員で構成された。七月王政下の政界は、運動派(mouvement: 1830年憲章を出発点とみなし、さらなる自由主義的改革に積極的な革新派)と抵抗派(résistance: さらなる自由主義的改革に消極的な保守派)とが代議院を二分する状況であった。初期の段階では両派間の政権交代もあったが、1840年までにはフランソワ・ギゾーを中心とする保守派が政権の座を掌握した。 1830年以後、議員は任期5年で、被選挙人になるには満30歳以上かつ納税額500フラン以上の納税者であることを要した。 国王は毎年代議院を召集し、その停会権および解散権を有するが、代議院を解散した場合は、3か月以内に新しい代議院を召集しなければならなかった。 1852年、代議院は再び立法院と改称された。
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