変節か栄光かとは? わかりやすく解説

変節か栄光か

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 22:37 UTC 版)

ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」の記事における「変節か栄光か」の解説

復古王政後は陸軍大臣務めたが、ナポレオンエルバ島から脱出するとその麾下戻り参謀総長就任する。しかし優秀な前線指揮官ではあっても緻密なスタッフワークが苦手な彼にこの任を果たせる訳もなく、ワーテルローの戦いではグルーシー元帥との連携失敗するなどの失策重ね(この時、彼がグルーシーに向け出し伝令1人けだったナポレオンは後に、かつての参謀総長ベルティエ元帥なら1ダース伝令出したろう、と悔やんでいる)敗北する百日天下後は妻の実家のあるドイツ亡命生活送ったが、1820年ルイ18世により赦免され元帥階級回復王党派自任した。1830年七月革命ではオルレアン家支持し王位就いたルイ=フィリップ重用され七月王政初期陸軍大臣就任国王から公共秩序維持するための軍の再建に関する改革案をまとめるよう要請された。この改革は、フランス陸軍戦力復古王政期より2倍に増強させ、職業軍人対す処遇年金保障海外領土採用できる外国人軍団創設などによって具体化された。外国人軍隊採用フランス外人部隊誕生帰結しスールト外人部隊創業者として知られている。1832年には首相に登り詰め1847年まで3回わたって在任する1838年にはイギリスヴィクトリア女王戴冠式特派使節として派遣。昔の敵手だったウェリントン公爵再会した1839年2度目内閣組織したが、国王次男ヌムール公爵結婚式に際して持参金供与しようとする法案議会否決すると、9カ月ぶりに退陣してしまった。後任首相であるアドルフ・ティエールエジプト問題をめぐる外交政策失敗更迭され1840年10月に再び首相陸軍相を兼ねており、同年12月には生存していた帝国元帥グルーシーウディノ、モンセーと共にナポレオンパリ改葬立ち会っている。3度目の首相在任時は中道右派傾向保守主義者らが閣僚職占める中で政局安定し七月王政期通じて最も長い間続いた内閣となったが、スールト自身国政実質的な運営外務大臣フランソワ・ギゾー一任した。1847年9月首相退任同時にフランス大元帥称号与えられる二月革命勃発してからは共和主義者であることを言明し、相変わらず時流迎合する動き見せた。こうして栄光栄誉包まれたまま、82年生涯終えた

※この「変節か栄光か」の解説は、「ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」の解説の一部です。
「変節か栄光か」を含む「ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」の記事については、「ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」の概要を参照ください。

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