ボザール様式とアメリカン・ボザールとは? わかりやすく解説

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ボザール様式とアメリカン・ボザール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 22:30 UTC 版)

エコール・デ・ボザール」の記事における「ボザール様式とアメリカン・ボザール」の解説

建築セクション場合美術アカデミー実権掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳し制約課していて、実測ローマ建築に限らせていた。しかし若手建築家はより深遠な古代の歴史求めて様々の試み行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアアジアにまで足を運び数々実測図をき 持ち返りその後講義用いている。この頃ギリシア建築対す認識一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築多彩色を用いて派手やか彩られいたかいなかったかという問題で、ジャック・イニャス・イトルフローマから送りつけた実測図はその問題最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。 フランス建築家にとってイタリア赴くということは古典古代建築をじかに観察し直接肌で感じることができるということにほかならなく、以前からローマ留学生達は古代建築丹念に実測克明に素描していた。しかしパエストゥム発見以降ギリシア建築現実建築家達の眼前晒され加えて中近東のそれや古代エジプト建築その実像が明らかになってきた。ナポレオンエジプト遠征軍が多数考古学者引き連れていったことからも解るとおり、当時の人々はそうしたローマ以前古代世界に対して並み外れ関心抱いていたのである実際ギリシアエジプト建築建築家知られるようになってきて従来古典考えられてきたローマ建築古典期最後に位置するものと認識されるようになったし、古代世界なるものも人々の意識の中ではるかに奥深いものとなり、考古学的発掘あいまって建築家インスピレーション汲み取るべき古代建築もそのレパートリー増やしていた。 建築家らが主張したのはむしろ、同時代作品生み出していくにあたってその規準原理としての原色効果で、古典主義建築、あるいは世紀末以降新古典主義建築家考えもしなかった様々な色彩彩られ建築生み出していくことであり、1830年ジャック・イニャス・イトルフ碑文アカデミーにて「ギリシア人における多彩建築に関する論考」を発表する古代ギリシア人がいかに色彩用いて建築装飾していたかを改め世に問うたもので、この論考1851年になって印刷されるが、彼が単に古代建築復原のみを考えていたのでなく、その中に新し建築用うべき新し原理もとめていて、彼はギリシア建築中に注目すべき形態、たとえば、ポルティコ列柱、あるいはその平面形式といったものを求めていたのではなくむしろ、形態要素建築家造形意欲に応じて自在に寄せ集め、様々のモチーフ色彩建築豊潤装飾していくことが重要であるとした。 古代ギリシア建築から多彩効果を学ぶということは新古典主義的な作風一段と躍び越え19世紀前半建築新し潮流にまで展開していく。18世紀後半から発生したグリーク・リバイバルの運動から考えればその最後局面といわれ、この多彩色(ポリクロミー)を基調とした様式美から、ギリシャローマ中東からルネサンスまでいろいろな要素混ざり合わせる新古典主義はまった違った体系折衷様式ネオ・グレコは、発足まもないエコール・デ・ボザールの若い建築家ことごとく魅了したようであるが、19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでアール・ヌーヴォーなどが出現し、モダン・デザインへの傾斜みられる中で、海の向こうアメリカでは逆に建物前面オーダー配し列柱並べたデザインなど流行していくこれらの古典様式を施す建築がまさにこの建築である。建築学でこれをボザール様式(アメリカン・ボザール)と呼んでいる。 その背景として、MIT建築学科ボザール帰り建築家教鞭取っていたこと、シカゴ万国博覧会ボザール様式好評だったことなどがある。日本でも大正から昭和初期銀行建築などに列柱並べデザイン流行したが、アメリカン・ボザールの影響である(三井本館明治生命館など)。 ボザール自体絵画彫刻建築の各美術分野併せ持った総合美術学校であるが、そのうち建築セクションではほかとはまった独自に別れて特権的ともいえる独自の教育方針を採り、その教育システム19世紀出発期から1968年解体にいたるまで、途中1863年ナポレオン3世介入による大改革以外は、ほとんど変わることなく続けられてくるという、あくまでアカデミーがその教育つかさどるという創立以来方針堅持されてきた。ボザール基本アトリエ制であるが、今日大学のような講座スタジオ研究室などではなく建築であれば建築家招いている学生私塾のようなもので、建築家になろうとするものはまずは外国人であってもアトリエ入所し、普通はその所属するアトリエ建築家推薦得てボザール入学志願者資格を得ることになる。アトリエパトロン建築家自身建築設計事務所別に主宰している。初期のアトリエパトロンはすべてローマ賞受賞者で占められ建築家特権的立場維持しながら社会リードしていく建築形態建築絶え生み出していった。 建築アカデミーであれば当時A・L・T・ヴォードワイエやナポレオン庇護得たペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエローマ大賞受賞者輩出していて人気高かった。ペルシエ+フォンテーヌアトリエからは18人のローマ大賞受賞者17人の次席出している。いずれも師匠作風受け継ぎつつもより折衷的な方向に向っている。彼らの著作はまたカトルメール・ド・カンシーとは別の意味新古典主義的な建築論展開しているが古典主義における規定絶対性を避け感性にもとづく建築構成主張するなど、この議論はちょう17世紀末の建築アカデミー創設の際、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペロー繰り拡げた新旧論争にも似て建築美の基準何処求めるかを追求したものであったが、彼らの立場それより少し前にヴィジオネールの建築家呼ばれるブレ感性重んじ、古い意味での古典派斥けたような古代建築否定するではなく古代建築顕現する一種驚きにも似た美的感動新し建築実現しようとする方向性をもっていて、その意味ではきわめてロマン主義的な傾向にも近くロマン主義新古典主義裏腹現象であったとみられている。 ボザール行われる講義は常に理論的な面ばかりで、建築アカデミー所属教授たちの中でも、特に建築論担当するものが最も権威あり、か学生対象とした課題設計競技プログラム作成担当責任者となっていた。発足以来のバルダールやブルーエ、ルシェールなどがその地位に就いていた。下級修了した学生上級進み、ここでは修業年限何年という規定ではなく入学から10年間のみの在籍規定だけで、学生たちは自分ペース合わせて学業果たし1867年までボザールには学科制度は存在していなかった。あるのは唯一のローマ大賞のみで、しかも年間1名だけに与えられていた。こうした教育システムの中で学生たちは適当に学校離れて建築実務に就いていたのである詳細は「ボザール様式」を参照歴史主義建築」も参照

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